追悼の辞
吉村光威初代会長は平成16年12月8日にお亡くなりになられました。66歳でした。ここに謹んで吉村先生のご冥福をお祈り申し上げます。
吉村先生は昭和37年3月に大阪府立大学経済学部をご卒業後、同4月に日本経済新聞社に入社され、編集局経済部、証券部、データバンク局部長、局次長を経て、平成3年に日本公社債研究所(現:格付投資情報センター)へ移られ取締役、監査役を経た後、平成10年6月、山口大学経済学部に教授として着任されました。また、平成12年4月に日本大学商学部へ教授として着任されました。大学卒業後36年間を実務家として、その後の6年強を学者として過ごされたわけです。
吉村先生は日経記者時代から日本のディスクロージャーの問題点を指摘し、その改善をうったえてこられました。その後、1980年代に入りデータバンク局時代になると経済分析や企業分析に携わる関係で、日本経営財務研究学会、日本経営分析学会、日本会計研究学会などの学会活動に積極的に参加なされました。平成元年に松山大学で開催された日本会計研究学会第48回大会において学者の報告の甘さを厳しく指摘されていたのが印象的でした。その段階で、自分でやらねばならないという思いからすでに学者への転進の展望が開けていたのではないかと思います。当時の思いは『ディスクロージャーを考える』(平成3年、日本経済新聞社)、『ディスクロージャーが市場と経営を革新する』(平成6年、中央経済社)で語られております。優れた歴史感覚で日本のディスクロージャーの本質を明らかにした『ディスクロージャーを考える』はディスクロージャーの新たな古典と呼ぶにふさわしい名著といえます。
松山以来、吉村先生は何かと構想をお漏らしになり、それなら「やりましょう」と皆が意気投合するなかで、吉村先生はとうとう平成8年にインターネットというバーチャルな世界でディスクロージャー学会を立ち上げられました。ホームページは BLUE SKY PAGESと名づけられ「青空に物事を晒すと虫干しされ綺麗になる」とのコピーが印象的でした。インターネットの時代ですから、アクセス数が気になるところです。ホームページ開設後2年程でアクセス数が1万件を突破しました。多くの親友がバーチャルからリアルな学会への衣替えを主張し、我々も自ら先頭に立つことを躊躇された吉村先生に決断を促し、平成11年5月のディスクロージャー研究学会の設立(山口大学)にこぎつけました。その後の吉村初代会長のご活躍は皆さんご存知のとおりであります。このリアルな世界への変身を記念して、同年6月に本学会の編で『現代ディスクロージャー論』(中央経済社)を発刊しております。当時、ディスクロージャーに関するまとまったテキストがなかっただけに貴重な出版となりました。
リアルな学会を立ち上げた以上は、広く社会に認められるようにしなければならないということから、3年後に選挙を行うこと、査読付の学会誌を発刊し学会の地位を高めること、そしてディスクロージャー研究のメッカになることなどを設立時の役員で確認しあって、吉村先生がぐいぐいその方向へ引っ張っていかれたものです。日経時代からの多数の友人が学会設立にご協力くださったのも吉村先生の日頃のお付き合いの広さを物語っております。この学会草創期の3年強を会長として勤められた吉村先生のご功績は偉大であり、追悼に際して記して感謝の念をお示しします。
がむしゃらに走ってこられた吉村先生も日本大学へ移籍された後に、病気がちになられ、学会活動もままならない時期もあり、悔しい思いもされたようです。平成14年に公約どおり選挙が実施され、國村が会長となり学会の基礎固めの時代に入っております。学会設立に吉村先生をご支援いただきました先生方が高齢等で退会される一方で若い先生方が次々入会されアクティブな会員で構成される力強い状況になってきましたし、厳しい査読方針を守ってきたことから学会誌の信用度も高まってきました。どうか吉村先生にはご安心いただきたいと思います。
本学会が新体制で発展する中、平成15年12月の大阪経済大学大会に奥様の介添えを得て吉村先生が車椅子でお越しになられたときには、会員一同どれほど勇気付けられたことでしょう。そこで、平成16年10月の法政大学大会では神谷準備委員長が吉村先生になにか一言でもお話いただければと企画され、吉村先生も喜んでおられ病床の中でも話す内容を原稿にしたいといっておられたのですが、それが実現しないままに逝ってしまわれたことは残念でなりません。
平成の幕開けから従来の学会にはできない方法でディスクロージャーの重要性をうったえ、かつ研究の場を生み出された吉村先生のご業績をたたえ、ここに追悼の辞を閉じます。ありがとうございました。
平成17年4月1日
会 長 國村道雄
事務局長 柴 健次
吉村光威先生追悼記
村井秀樹(日本大学商学部教授)
吉村先生との出会いとディスクロージャー研究学会の創設への思い
1993年4月、千葉商科大学で開催された日本経営分析学会第9回関東部会において、私は自由論題で「新金融商品会計の現状と課題~メタ・レベル的考察と経営分析に与える影響を中心として~」を報告した。その懇親会の席上、荒川邦寿先生(元国士舘大学教授)から吉村先生をご紹介していただいた。これが最初の出会いである。吉村先生から「君はどんな報告をしたのか」とおっしゃられたので、今回の自分の報告について手短に説明した。その際、吉村先生はグラスを片手に、私の話を本当に聞いているのか聞いていないのか分からない雰囲気だった。
しかし一通り説明を済ませるや否や、突然、「君の報告内容を日経金融新聞の『金曜ゼミナール』という箇所に掲載しないか?私が伝えておくから、大丈夫だ。」ということを言われた。正直、このうれしい依頼に戸惑い、耳を疑った。初対面の若輩者にこんな大きなチャンスを与えていただけるのか?日経金融新聞という一流紙に本当に掲載できるのか?このお話を真に受けてよいのだろうかと疑心暗鬼になった。
さらに、続けて「いつか、ディスクロージャー研究学会というものを立ち上げたい。バブル崩壊後、日本の金融機関や企業において一番の認識不足はディスクロージャーである。君もそう思わないか?」と。会計学を研究する者にとってディスクロージャーが大事だということは、十分承知をしている。しかし、真顔で言われると「何を今さら」と言う反発したい気持ちと「学会を創るとは、大風呂敷を広げる人だ」と思った。さらに「新聞の記事なんていい加減だ。もっと、若い研究者がしっかりした言葉で、社会に提言しなければならない」。失礼ながら朴訥でぼそぼそとお話されるこの人は、いったいどのような人物なのだろうかと考えざるを得なかった。
2-3日後、半信半疑で日本経済新聞社に電話をした。すでに吉村先生から連絡が入っていた。話はスムーズに運び、1993年6月11日(金)の日経金融新聞に、「金曜ゼミナール 昭和シェル事件と為替取引慣行」が掲載された。これが私の新聞デビュー作となった。この一件で、私の吉村先生への初めての印象がかなり間違っていたことに気づいたのである。おそらく、吉村先生への最初の印象を、私と同じように思われる方が多いのではないだろうか。
その後、共同執筆で『ディスクロージャーが市場と経営を革新する』(中央経済社、1994年6月)を御執筆され、1998年6月から山口大学教授として移られた。千葉商科大学での懇親会の席上でお話されていた「ディスクロージャー研究学会」を1999年5月に創設された。まさに、ご自身の信念を実現されたのである。山口大学では2年ほど過ごされ、2000年4月、日本大学商学部教授としてお迎えした。
日本大学に来られてからは、度重なるご入院で長期間にわたり闘病生活を余儀なくされた。いつもキャンパスには介護をされる奥様とタクシーで来られ、松葉杖あるいは車椅子姿で学生を研究室で丁寧に教えられていた。時には事務職員を叱責するお姿をお見かけしたが、これはご病気からの焦燥感ゆえであろう。先生の批判精神と物事の本質を見極め即座に実行に移す姿勢は、最後まで変わらなかったのである。
ご冥福をお祈りすると同時に、わが国のディスクロージャーを真剣に考えることが残された私たちの使命であると思われる。
(2005年1月15日記)