ディスクロージャー研究学会



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文書No.
890902

M&A本格化、財務広報戦略がカギ

    一橋大学助教授 伊藤邦雄

    89年09月02日 日本経済新聞 朝刊  

(1)日本企業にも企業の合併・買収(M&A)に対する防衛策を真剣に検討すべき時代がやってきた。

(2)そうした防衛を有効に行い、かつM&Aを事業戦略として成功させるには、従来の「日本的経営」の発想を転換しなければならない。その際、重要なのが、IR(インベスターリレーションズ)戦略である。

(3)IRとは、企業の実態に光をあてた多様な情報を一般株主などに主体的に発信することによって、経営に対する理解と共感を得、株価への好ましい影響を引き出す財務広報戦略である。今後のM&AはIR戦略がカギを握っている。

 もはや日本企業でM&Aに無縁の会社は一社もない時代に入ったといっても過言ではない。多くの日本企業がM&Aを経営戦略に組み込む一方、M&Aの防衛側に立たされる恐れも現実のものになった。

 そうした危険性を日本企業の経営者の脳裏に焼き付けたのが、最近起きたいくつかの敵対的な株式買い集め「事件」である。それらの事件で重要な争点になったのが、日本的な株式持ち合いの是非である。七月下旬、それに対する裁判所の判断も下った。株式の買い集めに対抗するために、現経営陣が経営権を維持することを目的として行った株式持ち合いは不当であるというものである。

 これによって日本企業の経営者も、M&Aに対する防衛戦略を本格的に考えざるを得なくなった。もちろん今後、自社株の取得、優先株の弾力的発行、毒薬条項(ポイズンピル=買収株主以外の株主に有利な価格で株式の買い取り請求権を与える)、「五%ルール」といった法制面での対応策が検討されることになろう。しかし、制度的対応をもってしても必ずしも十分でないことはすでに米国の事例が証明している。今後、そうした防衛的行動として少なくとも三つの動きが予想される。

 第一は株式を公開していた企業の「ゴーイング・プライベート」(非公開)化である。この傾向は米国で顕著であり、マネジメント・バイアウト(MBO)などがその典型である。第二は株式を買い占められても放置し、浮動株数などの要件を満たせずに上場廃止ないし一部から二部への指定替えを甘受するものである。第三は改めて安定株主づくりに努めることである。

 しかし、これらの行動にはいずれも限界ないし問題点がある。非公開会社にすると、資金調達や人材獲得面で不都合が生じるであろうし、従業員の士気にも悪影響を与えか。指定替えには、一般株主からの反発が予想されるし、また指定替えで株価が下落すれば、再びM&Aの目標にされかねない。

 安定株主づくりに今後、株式持ち合いを使うことは難しくなるだろう。安定株主づくりは、実は少なからずリスクを伴う。M&Aをする側は、ごくわずかの安定株主を説得して、持ち株の譲り受けに成功しさえすれば、容易にM&Aを実行することも可能となるからである。

 では、日本企業に残されたM&Aの防衛策とはどのようなものか。そのヒントは自社の株価、そして株主に対するきめ細かな配慮にあると言えよう。

 一般にM&Aのターゲットとされるのは、株価が企業の含み資産を加えた企業価値を下回っていると判断される場合である。従ってターゲットとされないためには、(1)株価が企業価値を下回らないようにする(2)株価が大きく下落しないようにする(3)株価ができるだけ高くなるように努力する――ことである。

 企業は、場合によって買収・防衛のいずれの側にも立つ。従って(1)―(3)は、買収側としても重要な株価戦略といえる。

 ところが、株価は市場が決めるものであり、企業が直接コントロールすることはできない。では、どのようにしたら株価への好ましいインパクトを引き出すことができるか。

 筆者は昨年十二月三十日付の本欄で、被買収企業に対する株価の反応について日米比較を行った。結果を要約すれば、米国ではM&Aが発表されると株価は大きく上昇するのに対し、日本では逆に大きく下落する。日本では買収側についても同じことがいえる。

 なぜ、日米でこのような対照的な差が出るのか。日本では「M&A=救済」という固定観念が働いているせいかもしれない。しかし証券市場がそうした固定観念だけで動くとは考えられない。むしろ、それ以外に要因があるはずである。

 その第一は、日本企業の戦略のわかりにくさである。伝統的に日本の経営者はM&Aという重大な局面においても、買収側にせよ被買収側にせよ、M&Aの戦略的な狙いを株主や一般投資家にきちんと説明する努力を怠ってきた。M&Aの利点、戦略的ポジショニング、M&A後の施策といった不可欠の情報が与えられずに、日本の投資家は意思決定せざるを得なかった。

 とはいえ、仮にM&Aという局面でその戦略的な狙いを説明しても、それが額面通りに受け取られる保証はない。そうした“泥縄式”の情報発信は、むしろ意図せざるせんさくを受け、誤解を受けかねない。

 ふだんから企業情報を主体的に伝えてこなかったこと――これが第二の要因である。 最近起きた「事件」は、はからずもこうした要因を裏付けたといえよう。全般的に日本の経営者は、買い占め側・防衛側ともに、自社の経営理念や戦略を訴える努力を怠ってきただけでなく、肝心の問題が起きた局面でもそうした情報伝達を欠いている。

 結局、敵対的M&Aから身を守り、友好的M&Aを効率的に行うための有力な手段は、株主らと良好な関係を維持することに尽きる。そうすることが株価にも好ましい影響を与え、また当該企業の経営者に対する株主の共感も得られる。

 そうした効果を創出する活動として、推進すべきなのが「IR」すなわちインベスターリレーションズという概念である。

 IRとは証券アナリスト、機関投資家、一般株主といった企業の関係者を対象とした定期・非定期の機動的な戦略広報活動のことである。言い換えれば、IRとは、商品のマーケティングと並ぶ、証券のそして資本のマーケティング活動である。

 IR活動が日本よりもはるかに浸透している米国では、実際に次のようなIRの効果が証明されている。

 第一に、分社や子会社売却の際、IRを行っている企業の株価の上昇率は、そうでない企業に比べ平均二倍程度に達する。第二に減配の際に、その理由を株主に主体的に説明した企業の株価の下落率は、そうでない企業の約半分にとどまる。

 さらに、IRという点だけを除けば企業特性がほぼ同じ二つの企業を抽出し、両社に共通するライバル企業が画期的な新製品を発表した場合の“効果”を調査した。その結果をみると、IRの一環として新製品の自社に与えるインパクトが弱い理由を説明した上で、敏速に伝達した企業の株価は発表当日にわずかしか下落しない。これに対し、何もしなかった企業の株価は大幅に下落することが明らかになっている。

 さらに驚くべきことは、数日後にはIR実施企業の株価は上昇に転じているのに他方の株価はさらに下落を続けた。

 日本でもイトーヨーカ堂、オリックス、京セラ、ソニー、本田技研工業、松下電器産業といった企業がIRを積極的に進めてきた。しかし、それらはむしろ例外で、大多数の日本企業はIRに無関心であった。そのような概念すら知らなかったというのが実際のところだろう。

 十年ほど前に行われた「日米企業の経営比較」の実態調査で、日本企業の経営者は経営目標として株価の上昇を最下位に挙げた。この事実は別段驚くにあたらない。当時は日本ではまだM&Aが珍しかったからである。

 ところが昨年、通産省が発表した「日米の企業行動比較」でも、最重要項目として株 価の上昇を挙げたのは米国企業の七九%に対し、日本企業はわずか一二%であった。 これに関連して、もう一つ重要な問題がある。日経産業新聞の「財務・企業分析」欄に毎回登場する「わが社の株価」という記事がある。それにはある興味深い共通点がある。それは、大多数の経営者が「わが社の業績は証券市場でもっと評価されてもいいのではないか」、「わが社の業績からすれば、株価はもっと高くてしかるべきである」と述べていることである。

 これは、自社についての経営者の主観的評価と投資家の評価との間にギャップがあることを裏づけている。と同時に、そうしたギャップは、市場あるいは投資家側の努力によって埋められるべきだという考え方があるようである。

 IRとは、そうした発想を転換したところに成立する。むしろ企業側が積極的に自社の理念や戦略、さらには詳細な財務情報を主体的に投資家にディスクローズ(開示)することによって、こうしたギャップを埋めようとする行為なのである。

 証券市場が公開情報に関して効率的であればあるほど、ギャップを埋めるような新たな企業情報を生み出し、発信することが重要である。その際、企業の実態への“光の当て具合”に創意工夫をこらすことが戦略的PRのかなめとなろう。

 M&Aという経済行動には、これまで言いはやされてきた「日本的経営」の、いわば陰の部分をあぶり出す効果がある。その第一の特徴は日本の経営者の株価に対する関心の薄さであり、第二は株主に対する戦略的情報コミュニケーションの欠如である。従ってこうした欠点を克服することが、M&A戦略を有効に展開するカギとなる。

 日本企業が敵対的なM&Aを恐れ、その防衛に皮相的に対応しようとすれば、これまで蓄積してきた「日本的経営」の強みを崩しかねない。M&Aを従来の発想の延長線上でとらえないことが、「日本的経営」をより伸ばすことにもつながる。

 その意味でIR活動とは、そうしたパラドックスを解消し、株主の共感を創出する戦略的活動だといえよう。



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