文書No.
910729
学習院大学教授 南部鶴彦
【問題点】 日本の政府規制はゲームのルールを当事者以外には明示せず、関係者だけで、一見安上がりに問題を処理している。これは、情報開示や裁判のために多くのコストをかけている米国と対照的である。この日本型方式は、当事者とならない消費者の利益が保証される機構を持たない欠陥を持ち、米国より効率的であるかどうか疑問である。
【提言】 最近の証券業界における損失補てん問題は、日本型市場取引ひいては日本型資本主義のゲームのルールを如実に示した好例だった。そこでは証券会社、大口ユーザーそして大蔵省という主要当事者だけしかゲームのプレーヤーとして登場せず、肝心の消費者は「カヤの外」である。 一般の消費者が今回感じているのは、政府は本来消費者の利益を守る役割を委託されており、それ故にこそ強大な権限があるはずなのに、その期待が裏切られていることに対する「やり切れなさ」である。日本では依然として官庁に対する信頼感が根強くある。このため、一般の国民感情は裁判してまで争うという「怒り」となっては現れてこない。 本稿では今回の証券問題に限定せず、より一般的に日本の政府規制が消費者の視点に立つとき、どれほど効率的であり得るかについて考察する。経済学の資源配分の観点から、日本の政府規制方式における基本的問題に考案を加えることが強く要請されていると言えよう。 日本の規制システムはそれが批判されるときには、行政指導、官民癒着、消費者不在などという言葉とともに語られてきた。これらはいずれも事柄の一面を摘出していることは確かである。しかし、ここではより広い「市場取引費用」という用語を用いて、米国と比較しながら日本の特質を明らかにしてみよう。 市場ないし競争メカニズムを用いて、社会の資源を配分するという仕組みには、この仕組みを維持し、円滑に機能させるための資源が必要とされる。簡単な例を挙げれば、利益をあげるためには人を欺いてもまったく罪にならないとすると、市場取引が市場価格で行われることはないだろう。 そこで、司法・警察制度はどうしても存在しなければならないし、そのためには資源が投入される必要がある。これは市場メカニズムを利用するために必要とされる費用という意味で、市場取引費用の一つである。 市場メカニズムには、順守すべき「ゲームのルール」が存在する。しかし、ルールとは人間のつくるものである以上、国の違いがルールの違いとなることは国境があるのと同じく不可避である。 米国における企業活動に関するゲームのルールは、透明性の要請という点に特徴がある。企業対消費者の関係について見れば、情報の開示や差別的取引の禁止、結託の違法性などにそれが明示されている。このことは企業対政府の関係についても同様であり、政府が市場メカニズムに介入しようとするときには、介入の根拠を明示することが求められる。 その典型例は、各監督官庁が掲げるガイドラインである。これは規制のマニュアルとも言うべきもので、企業はガイドラインに従えば、それ以外の明文化されていない判断によって律せられることはない。 さらに規制の手続き自体の正当性についても、「デュー・プロセス」(法の適正な運用手続き)という伝統的理念によって、法廷で企業は規制の正当性を争うことができるし、しばしば規制の正当性が裁判所によって覆されている。 以上のような制度的枠組みを経済学的に表現すれば、ガイドラインを正確に理解するためや、法廷で政府あるいは他企業・団体と争うために、市場取引費用が明示的に支出されているということになる。 たとえばガイドラインにしても、これを専門的知識のない人が正確に理解することは不可能であるため、そこには専門家を雇用する必要がある。法廷での争いには、弁護士が必要となるのはもちろんのこと、ヒアリング(公聴会)の形で専門家による意見の陳述が要請される。 これらのための費用は一つの大きな市場取引費用として外部から観察できる。こうした直接的な費用以外に、企業が法務部門を充実させるために投入する資源もある。 米国では市場競争のルールを守るために、市場取引費用を当然のこととして負担しており、それは外部からも観察可能な形で制度化されている。 これに対して日本では、法律による規制以外に、省令や通達などからなる行政指導が規制の手段として用いられている。また、規制そのものの正当性について疑いを持ったとしても、行政訴訟に至ることはまれであり、通説としては国側が行政訴訟で敗れることはないとされているため、企業が行政訴訟に持ち込むこと自体、通常は考えられない。 つまり米国型の透明性を実現するための市場取引費用は外部的には支出されてはいないわけである。言いかえれば、日本の行政指導は市場取引費用を内部化するというやり方をとっていることになる。ガイドラインや訴訟などに代わって、政府対企業の関係における諸問題は各省庁と企業担当者との交渉・協議という方式で解決されている。 このときには、市場取引費用に当たる資源の投入が現実になされている。しかし、それは規制側と企業側との人的資源の投入という形をとり、米国のようなゲームのルールの透明性を前提とした支出とは異質の市場取引費用である。 他方、日本には行政訴訟がまれであるという事実は、一見するとその分だけ市場取引費用が節約されているように見える。資源配分の効率性という基準からみると、市場取引費用の少ないシステムの方が優れているという判定が下されるが、果たして日本型の 市場取引費用の内部化は、米国型の資源投入の方式に比べて、そう言えるだろうか。 日本の規制方式では、政府の企業に対する規制の正当性を判定する第三者の存在が米国の裁判所のような形では存在しない。もちろん建前上は、各政府には審議会という制度があり、これが規制のあり方をチェックすることになっている。また公聴会制度もあるため、第三者の意見を政策に反映させるルートは存在するかに見える。しかし、現実には各省庁自身が審議会の委員を選抜していること、そしてこの選抜され た委員が果たして適格かどうか客観的に判定する仕組みのないことは、審議会のチェック能力に疑問を抱かせるに十分である。特に専門的知識が必要とされる審議会に、一般消費者代表として専門的知識もなく、またそれを習得する意欲や能力のない人々が中立側委員として参加することには大きな疑問がある。公聴会については、そこでの意見陳述が単なる形式に堕していることが少なくない。 したがって、日本型の規制では、直接の当事者である規制当局と企業との間で双方の合意を達成するのが第一の関心事になることは避けられない。理論上、政府は消費者の代理人(エージェント)であり得るが、現行の方式ではたとえ真の代理人となっていなくても、そうしたことをチェックする機構を欠いているのである。 以上のことから、たとえ日本のような市場取引費用の内部化方式が米国よりも一見して費用節約的であるように見えたとしても、そこには最終的に受益者である消費者の利益を守るというメカニズムが十分に機能しないのなら、市場取引費用の節約より消費者利益の損失の方が大きくなっている可能性がある。 しかし、日本型方式から米国型方式へ短兵急に移行するのは性急にすぎよう。なぜなら本稿では議論する余裕のなかった官僚制の社会的基礎とか、米国の訴訟方式に明らかに見られるモラル・ハザード(道徳的落とし穴)などが同時に考慮されねばならないからである。 日本として第一に改革すべきことは、規制当局を本来監視、先導すべき審議会の機能を充実させることである。審議会に欠席しがちな委員や、専門的知識がないと明言できるような委員は排除される仕組みが必要である。また、形骸化した公聴会制度は、証言する人々がその内容について社会的威信を認められると同時に専門家として能力を問われるような、権威のある制度にすることが必要である。 そしてより長期的には、裁判所にも政府規制の監視機構を持たせることを検討されなければならないが、その前提として、法律家的現実主義だけでなく、経済的な資源配分の考え方を理解できるような法律家を育成するインフラづくりが、今から着手されなければならない。
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