文書No.
940625
ディスクロージャーが市場と経営を革新する
まえがき 1991年7月「ディスクロージャーを考える」(日本経済新聞社刊)を書いて以来、各方面から色々な激励と批判をいただいた。激励はディスクロージャーという考え方を市場経済の原理とまで言い切ったのは良いことだというものだった。批判は「原理・原則はわかった。それでは日本のディスクロージャーは具体的にどうすればよいのか」というものだった。 そこで筆者はディスクロージャーに関係するイシューアー(発行体)、アンダーライター(引き受け人)、レギュレーター(規制当局)、エクスチェンジャー(取引所)、オーディター(会計監査人)、アナリスト(株式アナリスト・債券格付けアナリスト)、ジャーナリスト(新聞・放送記者)、アカデミシャン(学者)の参加をえて1991年7月日本経営分析学会に「ディスクロージャー研究会」を設け月一回、日本公社債研究所で研究会を開いてきた。毎回メンバーの「基調報告」をもとに議論し、これを「新しいディスクロージャーを考える」として中央経済社の旬刊「経理情報」に掲載し大方の目に触れることになった(議論のまとめは法政大学の森山幸恵嬢=当時にお願いした。記して感謝に代える)。議論はディスクロージャーの理論から実務まで多岐にわたり、途中日本経営分析学会の連結財務諸表、有価証券報告書の各シンポジュームをはさみ本音ベースの激しいものになった。連載は13回におよび一応当初の議論の範囲を達成したので、議論をふまえもう少しまとめようということになりこの本を担当分野に沿って執筆していただいた。 当初冒頭に「日本的経営とディスクロージャー」という章をたてたが、基本的問題でもあるので、これを「序」に収録し、続いていまは長崎大学教授(前日興リサーチセンター主任研究員)の高橋元氏に「資本市場とディスクロージャー」としていわば「総論」というかこれまでの「経緯」に関し論じて貰った。「研究会」では伊藤邦雄一橋大学教授や実証研究を盛んに行っている薄井彰新潟大学助教授(現在米コロンビア大学)が理論面というかディスクロージャーの枠組みを論じて貰った。「序」ではあまり企業側に片寄ること無くむしろ中立的に、且つ理論面では薄井氏の考えを吸収した形になっている。 それ以外は大体分野別に論じていただいた。商法、証取法のディスクロージャーはCOFRI(財務制度研究会)の松土陽太郎氏(現朝日会計社)、イシューアーの白石健治氏(松下電器産業)、井上吉三郎氏(花王)に、またタイムリー・ディスクロージャーはそれを担当している東京証券取引所の長田博氏にお願いした。、新しい金融・証券商品のそれはロンドン大学から柴健次氏(大阪府立大学助教授)が格調高く「現地報告」していただいたはか「商品ファンド」を浅原清作氏、「投資信託」は北村一夫山一証券投資信託委託相談役の紹介で鈴木 氏に書くていただいた。抜本的開示が望まれている金融機関の情報公開論は当該分野から専門家の銀行を島田二三男氏、保険を市来治海氏に見解をいただいた。またディスクロージャーの比較的新しい考え方でもある「インベスター・リレーションズ」は神谷健司氏、間接金融とディスクロージャーの関係は筆者がまた債券格付けの考え方は長年これに携わっている久保吉生氏、国際会計基準の方向はその委員会の議長であり「研究会」のメンバーでもある白鳥栄一氏に書いていただいたのは好運だった。国営企業の民営化にともなう情報開示も相次ぐ民営化政策の推進で重要になっており、ジャーナリストから宇都宮年夫氏に特に論じて貰ったのはよかった。イシューアーから野村証券の大橋敏次氏には店頭公開のディスクロージャーを根本から問い直していただいた。監査はディスクロージャーという「公共財」の一つの担い手である会計監査人の村山徳五郎氏(元日本公認会計士協会会長)に新しい監査の在り方をまた分析はアナリストが中立性を要求されていることから中立的な青山護氏(横浜国立大学助教授)に論じていただいた。最後に高度情報社会とディスクロージャーの高度化は軌を一にしている面があるのでそれをデータベース振興センターの富井光一氏(現日本経済新聞社)に展望して貰った。まさに「ディスクロージャー研究学会」を構成できそうな執筆陣であり、或いはそうなることもありうるかもしれない。 なおこのうち「研究会」で議論していない分野で本の段階で追加したのは「商品ファンド」、「保険」、「民営化」、「情報化」と「投資信託」であった。このほかディスクロージャーについて詰めて考えなければならない分野はまだまだある。例えばデリバティブ(派生商品)のディスクロージャーや証券会社そのもののディスクロージャーがある。 当初この本は「新しいディスクロージャーの構想」という題名であったが、編者は企画構成を行ったが一部を除いて修正・書き直しをせずかなり筆者まかせとしたこともあり、編者の独断で「情報公開論集」に変更し、副題に主題名をあてた。もともと「新しい・・・」は「研究会」の段階で用いたことだけで且つ「構想」とするほどにまとまりなく「論集」とした。もう少し前向きに考えると「ディスクロージャー」が証券取引に関するものであるが、「情報公開論」はもう少し範囲が広く且つ本質的に問題を提起しているということであろう。しかもこのほうが各論文の中身にふさわしいと思える。 この本が「日本のディスクロージャーをどうするか」という当初の課題に応えているか読者の判断に待つが、ある程度は具体的な提案ができたのではないかと思われる。それは各論文に負うところが多いが、これをきっかけに建設的なディスクロージャー再構築案が提案されることを期待したい。筆者は「日経WIND」というパソコン通信網で「情報公開会議」という電子会議を主宰している。手軽に参加できるので是非意見を寄せて頂きたい。
1994年6月吉日 最近のディスクロージャーに関する関係者の発言を拾ってみると、まず証券団体協議会は平成6年初、「1994年証券界の課題」を発表、その中で市場メカニズムの機能する効率的な証券市場の構築を上げ、これを達成するため株式発行市場の正常化、公社債流通市場の整備とともにディスクロージャー制度の充実を強調している。やや羅列気味の提案の感があるが、ディスクロージャーに対する期待の大きさを示しているといえる。また大蔵省は平成5年末、規制緩和に関する記者発表の冒頭で「証券市場、証券取引に係る規制等については、行政当局としては、取引の公正確保、ディスクロージャーの充実といった投資家保護のための規制等についてその適正化を図る・・・」と述べている。証券市場の活性化のためディスクロージャーを充実しようと考えているようである。 また資本市場の競争力強化のために「会計制度が重要とされるのも市場参加者がリスクとリターンを正確に評価する上で必要不可欠だからである」(三重野日銀総裁=「最近の金融経済情勢についてーー景気停滞脱却に金融・資本市場活用の余地はないかーー資本市場研究会講演会ーー平成5年12月7日)とディスクロージャーの中心的テーマである会計基準の重要性に言及している。 さらに長岡実東証理事長は「市場機能回復のため市場の公正性、透明性に対する投資者の信頼が常に確保されていることが重要であり、重要な会社情報が適時適切に開示されていることが大前提」とし、「タイムリー・ディスクロージャーに積極的対応を」(COFRIジャーナル1993・3)と起業に要請している。 ディスクロージャーを専門的に検討している財団法人企業財務制度研究会は平成6年3月「開示内容の改善に向けての調査研究」(委員長冨尾一郎氏)をまとめた。企業側、アナリスト、監査人など実務者がそれぞれの立場から意見を述べている。理論的にデスクロージャーを明らかにした訳でなく、また統一的な見解が示された訳でもなく、意見の羅列にすぎないが実務者段階でもディスクロージャーを一つの方向に持っていく糸口になると考えられる。 すでに日本経営分析学会は1991年央からディスクロージャー研究会(座長吉村光威氏)を開き、ディスクロージャーの理論から実務まで本格的に検討してきた(旬刊経理情報92年1月1日号から93年5月20日号まで14回連載)。同学会は実戦的な経営分析のコンペティションを行うなど(創立10周年記念出版「日本のトップカンパニー」ーー日本経済新聞社刊)ユニークな活動をいているが、経営分析のためにはディスクロージャーが不可欠との認識からこの研究を進めてきた。ディスクロージャーの在り方を本格的に研究したわが国では画期的な試みであった。
ディスクロージャーが大いに問題になった訳だ。それは「金融秩序維持」という大義名分から議論することさえタブーとされ、「聖域」とさえいわれた銀行の「資産内容」がまさしく「話題」にされ「問題」になった。銀行の不良資産が正確に且つ全額ディスクローズされないため株価が常に不安定になるという事態が発生した。いわば、わが国の金融・証券システムの立て直しの決め手の一つとしてディスクロージャーが位置づけられてきた。金融システム再構築のためにはディスクロージャーが欠かせないという認識に立っている。大きな変化である。 第二は国際化にからむ問題であった。証券取引・金融取引の国際的垣根が引き下げられ、内外ともより自由に取引は行われるようになり、それにともなって国内だけで通用していた規制や慣行が立ち行かなくなり外国との調整が必要になった。金融取引や証券取引でも国際間取引が24時間行われるようになったのにともない取引のルールを共通のものにする必要性がにわかに高まった。なかでも海外からの特に米国からの市場解放要求が強くなった。日米構造協議において「系列取引」の閉鎖性が指摘されその情報公開を迫ってきただけでなくその後もことあるごとにわが国の市場解放を求めてきた。銀行のBIS(国際決裁銀行)規制が実施されると、株価と銀行の自己資本比率が連動するようになり、あたかも銀行の体質は市場まかせという「市場経済主義」(?)が現出された。海外からの市場経済主義の要請はとりもなおさずディスクロジャーの強化であった。また市場解放の要求の背景にはもちろん貿易収支の大幅黒字がある。日本の市場を解放して輸入を増やすことによって黒字を解消させようという考え方であるが、これはもとをただせばわが国企業の国際競争力が高くなったためである。しかしこの強い競争力はフェアープレイでかち取ったものではないとされた。 第三に企業そのもの在り方を問い直す動きである。これはとりもなおさず「コーポレート・ガバナンス」(企業統治)をどうするかの問題である。株主の権利を強調する米国とそうでない日本の違いが浮き彫りになった。バブル経済形成の過程でもバブルをテコにして企業体力をつけた面も否定できないこともあった。バブル以前は銀行がメインバンクとしてある程度それなりの「コーポレート・ガバナンス」機能があったが、バブル以降、日本の企業は借金返済とともに銀行の「しばり」から逃れ「野放図」に振る舞ったようにみられる。またいわゆる「系列関係」にある仲間うちの企業とは互いに有利な互恵取引など閉鎖的な関係を持つが、グループ外の企業にはそれだけ不利になるというものも社会的には「コーポレート・ガバナンス」が不毛というわけだ。これが日本の企業のほとんどに及び、且つ政府がこれを指導・強化し、日本全体があたかも異質な経済体制を歩んでいるかのような目でみられた。大蔵省がPKO(プライス・キーピング・オペレーション)というような株価維持政策とったといわれ、直接株価を「管理」または「操作」するという信じられない市場の不透明性も指摘された。コーポレート・ガバナンスは情報公開によって経営の透明性を高めさせるしかないと考えられるようになった。 第四にやや大げさではあるが冷戦構造の崩壊との関連でディスクロージャーを考えたい(拙著「ディスクロージャーを考える」ーー日本経済新聞社刊参照)。1980年代後半はバブル経済の発生が大事件ではあったが、それ以上に大きな世界的な事件はソ連の社会主義体制が崩壊し、同時に東欧が解放された。米ソ対立の時代が終わり東西融和時代に入った。ソ連のゴルバチョフ大統領は共産体制に代わってソ連にペレストロイカ(改革)をもたらし市場経済体制に変えた。1990年代になると社会主義体制ながら解放経済化を進めていた中国は「社会主義/市場経済」という二律背反するような政策を掲げた。この間ソ連が市場経済化のため「情報公開」(グラスノスチ)政策を用いたことは、改めて市場経済には情報公開、ディスクロージャーが不可欠ということを実証した。共産主義の敗北により資本主義が世界唯一の経済体制ということになり、資本主義と共産主義の論争を終わり、これがやがて「誰が正統な資本主義か」を問う結果となる。米国こそ自由経済体制のチャンピオンであり、日本は異質で異端の資本主義と批判された。異質を「普通」に変えるよう、セグメント情報、系列取引情報など情報の公開によってこれを行うよう迫った。 第五に米ソ対立解消は国内政治改革をもたらし、わゆる自民と社会両党対立を軸としたいわゆる「55年体制」が崩壊し新しい政治の枠組みがつくられつつある。古い秩序のもとでは新しい発展が得られないと考えるようになり、「規制緩和」が合い言葉になっている。海外からの金融・証券の自由化要求が国内的な規制緩和圧力を増幅させているようにみえる。いわゆる行政指導をはじめとする業種別の業務規制と業者保護政策が「政官民」の癒着をもたらし政治を暗くしている。大蔵省の銀行、証券、保険にたいする各種規制は「箸の上げおろし」にまでおよび、通産省の業者行政も製品の需給や価格にまで及んでいるし、厚生省の薬品、運輸省の交通、建設省の建設など大蔵省のそれと同等と考えて良い。価格は需要と供給とから決まり、その品質の情報開示でより公正な価格に磨きあげられる。こらが自由市場経済である。行政が例えば製品やサービスの需給や価格まで決めるのでなく、こうした規制を解いてディスクロージャーによって市場で決めさせるという考え方が必要になっている。製造物責任の考え方もこれに組みし、製品の情報公開の問題である。官僚を始め体制側は必ずしもこういう考え方に立っていない、むしろ企業側寄りの「企業秘密」主義を援護する形になっているとの見方もある。業者保護行政の域から一歩も出ていないといわざるをえない。自由に形成されるべき株価をPKOなどの政策で「管理される」ことに厳しい批判が相次いだ。 これとともに中央政府でも細川政権は「情報公開法」の制定を政権樹立と同時に表明したように「中央政府のディスクロージャー」が動き出している。すでに地方自治体は「情報公開条例」を相次いで制定しているし、政治家の情報公開も一部不十分ながら制度化しているのに政府が未だ制度化していないのは片手落ちではあった。 第六に90年のバブル経済崩壊以来資産価格の暴落を始めとするデフレ現象が実物経済の不振、つまり不況を一層深刻なものにしている。不況克服のためにも経営の革新を行う機運が高まりつつある。生産ラインの見直し、流通ルートの変革、情報のシステム化、年功序列賃金の再検討、株式持ち合いの再調整、メインバンク制の見直しなど企業のあらゆる側面の根本的改革を行おうとしている。株価下落で資金調達が行き詰まっていることもあって、改革の一環としてインベスター・リレーションズ(財務情報の広報)を行う企業も現れている。企業からの「シグナリング」強化で投資家を市場に呼び戻そうとしている。 第七に現代は情報社会、それも高度情報社会といわれているが、ディスクロージャーはこの高度情報技術を用いて実効をあげるようになっている。社会や企業の情報システム化の進行が、24時間グローバル証券・金融取引をより促進させている。情報化が国際化をもたらしており、同時に取引の自由化を促進させている。この3つの「化」は互いに相乗効果で強化されているとみてよい。
ディスクロージャーはそもそも証券の取引を円滑・公正に行わせるため証券の発行体に証券の価値を推定出来るよう一定の基準で情報を公開させる制度と定義される。その目的は法律的(証券取引法)には投資家保護である。経済的にはどう考えるか。もう少し範囲を広く定義されるかも知れない。取り引きする商品・証券に関する情報は売り手・買い手の間で「対称的」になるまで十分行き交うことによって初めて価格が公正に形成される(レモン・マーケットの理論)。「情報の対称性」を確保するには勿論、制度的に厳しく規制することは必要(マンデトリー・ディスクロージャー=制度的情報開示)だが、一方では自発的に情報を公開させようとすることも必要(ボランタリー・ディスクロージャー=自発的情報公開)。投資家は制度的情報開示で企業を「モニター」することができる。また企業は「シグナル」を自発的に投資家側に送ることで理解が深まる。マンデトリー・ディスクロージャーはいわば狭義のディスクロージャーといえる。ボランタリー・ディスクロージャーを加えて広義のディスクロージャーとここでは考えたい。
ここでディスクロージャーを行う主体は単に企業だけにとどまらない。市場のすべての関係者ができるだけ情報を開示することが前提になる。規制当局、取引所、証券会社、銀行、アナリストなどすべての関係者が関係する情報は公開することが必要である。発行市場だけが情報公開しても流通市場が情報が不足していては価格は公正に形成できない。その逆の場合もまた市場は成り立たない。わが国では規制が多すぎて規制そのものの公開が必要だが、ここではこれだけを述べて置く。詳しくは後述する。
企業の情報開示はまた先に述べたように「モニタリング」機能がある。近代的な企業経営は資本と経営は分離しているが、資本つまり株主(プリンシパル)は経営つまり経営者(エージェント)をどのように監督・監視するか重要な問題である。経営者は絶えず自己の利益を優先するとか、従業員優先の政策をとって株主や債権者(いずれもプリンシパル)に不利になる選択を行う(モラルハザード)かも知れない。その解決策の一つがディスクロージャーである。情報を公開させることによってエージェントを監視し、そのような選択をさせないようにし、経営者がもたらす危険を回避しようとする(エージェンシー・コスト・アプローチ)。 エージェントは株主に限らず債権者(社債権者を含む)、従業員、消費者、地域住民、外国人など企業とりまく多数の人々と「契約」している。例えば社債権者(プリンシパル)は株主と違って「成長」より「安定」を望む、利益が出て沢山配当されるより、確実に約束された金利を支払い約束通り元本が返済されることを望む。株主の「成長」要望と合いいれない。従業員はまた株主のように利益ではなく賃金の増加を望む。企業は欲望の衝突が絶えないが、これを調整するのが情報の機能である。経営者はいまや経営の「理念」を持つのは当然であり、その理念をまず開示することが肝要である。これがインベスター・リレーションズの基本である。基本を外すと本来の目的を達成することが出来ない。経営理念を手始めに経営に関わる事実を迅速に公開することが「利害調整」の第一歩になる(拙著「情報公開と経営」21世紀のニューマネジメント第15巻「情報」=総合法令参照)。情報の公開が市場の価格を形成し、価格が需給を調節する。証券の価格だけでなく労働、原材料などすべてが適正に需給と品質を反映して価格が形成される。情報が公開されて初めて企業が市場に曝され、虫干しされ、健全になる(米ブルースカイ法の考え方)。「監視機能」とともに「健全化機能」をディスクロージャーの大きな機能としてここで位置づけして置きたい。ボランタリー・ディスクロージャーをディスクロージャーに組みすると考えるのはこのためである。
1980年代後半の企業の資金調達が「間接金融さようなら、直接金融こんにちは」という変化のなかでキチッと枠組みを用意しなかったことが今日の問題の原因である。間接金融側も企業金融の新しい枠組みがないまま昭和恐慌時の制度を引きずってバブル破裂後深刻な事態に陥った。バブル破裂後金融機関のディスクロージャーが問題になったがもはや手遅れだった。直接金融はまさにディスクロージャーを無視する形で進行した。企業ーー証券会社のやり取りが「法人相場」を形成しもしあるとすれば「個人相場」を無視してきた。「法人相場」はディスクロージャーは要らない、むしろディスクロージャーは有害であった。情報は法人間でのみ交換されていた。モラル・ハザードが随所で起きていた。損失補填事件や飛ばし事件は市場価格を無視した取引であり、証券取引の本質を根底から覆すものであった。 日本の「不透明取引」は海外から特に米国から厳しい批判が寄せられた。1990年証券取引に関わる国際捜査協力が話し合われ、日米ディスクロージャー相互乗り入れ協定が調印された。有価証券報告書に「セグメント会計」や「関連当事者の報告」が追加されたのも米国の要求に応えるためのものだったが、あまり答になっていない、すれ違いの感が強い。 わが国のディスクロージャーは以上の歴史的経過と国際的要請から現在、本質的な転換点に立っているといっても過言ではない。
証券取引においては1992年半ばまで496項目もの「通達」が大蔵省から証券界に発せられていた。株価形成の自主ルールをはじめ、時価発行の自主ルール、利益還元ルールなどこういう次元で計算して496もの行政指導が行われていたのだ。PKOを始め株価形成の仕方から企業の配当の質・量をも大蔵省のルールに従うわけだからがんじんがらめ規制で民間の自由裁量の余地はほとんどない。「あるとすれば損失補填とか飛ばしなどの不正しかない」と証券会社に嘆かせたものだった。証券会社の自主性が喪失したら自立はなく責任体制は組めない。市場は崩壊する。利益・配当の在り方さえ証券局の課長の諮問機関で決定させた。配当は少なくとも株主総会で決定されるべきで政府が介入すべきではない。1992年7月、496項目の行政指導は30を残し残りはすべて証券業協会や証券取引所などに移された。これで大蔵省の手から行政指導が民間に移され自主ルールになったこととされているが、もともと行政指導は民間の自主ルールの形をとってきたので実質的になんら変わりはない。取引所も本来株式会社であるべきところが、ますます官僚化し「準役所」などという錯覚に陥っている。自主ルールは例えば株価形成の仕方を決めるのではなく株価形成に役立つ情報を提供される仕組みをつくることが肝要である。それがディスクロージャーというべきものである。情報の公開である。時価発行のルールも需給調節するのでなく資金の需要の状況を発行体の情報開示を徹底させることで調整させるべきである。配当はいくらすべきというのでなく株主が配当について自由に協議する機会をつくるべきである。行政はこれは自らの否定だからなかなか実現できないかも知れないので政治がこれを実現すべきである。政府の情報公開法案に織り込むべきである。「業者行政を止め市場行政への転換」を示唆したのは「株式市場を巡る基本問題勉強会」(座長蝋山昌一大阪大学教授)レポートである。 つけ加えて述べておけば、自主ルールはすべて公開すべきである、また変更した場合はその内容を開示すべきである。それは個人投資家が容易に分かるようにすべきである。 もう一つつけ加えるならば自主ルールは無差別に実施されるべきである。外国の証券会社には「ゆるやかに」国内の証券会社には「厳しく」運用されると株価形成など歪められる。先物取引と現物取引の裁定取引問題もこれが原因といわれている。 さらに加えて述べると法律の実施を変更するときは法律を改正して行うというのがこの国のルールであろう。なにしろ議会性民主主義なのだから。1993年夏コスモ証券が突然飛ばし事件による損失を発表、同時に金融改革法にもとずく大和銀行のコスモ証券への第3者割当増資を発表した。この事件はディスクロージャー上も問題の多いものだった。まず多額の損失が情報公開されていなかった。従ってコスモの株価が多額の損失を株価に織り込んでいないのに第3者割当の株価が決められていた。第2に同年4月施行の金融改革法の銀行の証券子会社は株式の取引ができないことになっていた。それにもかかわらず「例外」として認められた。大蔵省は金融改革法の説明でたしかに銀行の証券子会社は株式取引を「法律で禁止」と説明していた。わずか半年前のことだった。法律で禁止したものは法律で禁止を解除しないと国会は要らないことになる。政治が大きく変革している時期だけにこのような不祥事があってはならない。むしろ逆の政治が行政を指揮することが新しい政権の課題であったというべきだろう。
ディスクロージャーに関しては「コスト・ベネフィット論」が経済界に強いがこれは「これだけディスクロージャーにコストをかけるのだからそれなりの恩恵がほしい」というわけだ。これは企業の思い上がりである。企業は存在するだけで社会と多くの関わりをもっており、その経営内容を公開すればするほど経済そのものが効率化し結果的に企業に恩恵をもたらす。情報を公開しなければ経済、市場は成り立たず崩壊するしかない。恩恵どころではない。ただ経済社会にとってコストの高くないディスクロージャーを考えなければならない。官僚的でなく自由競争でディスクロージャーが強化されていくような仕組みが必要だろう。ディスクロージャーを積極的にやっておれば資本コストがそれだけ少なくて済むような仕組みが資本市場に求められる。少なくとも企業と証券会社や銀行との情報の交換で市場が形成されるようなことがないようにしなければならない。かえって高いコストを後で支払わされる。バブルの後始末のように。 企業は経営情報を公開することで発展する。情報を公開することで業務の公式性が達成される。何事も秘密主義では公正さは確保できない。情報を一部の人や部門が握ると社内にも社外にも「情報の非対称性」が起きる。情報の公開で企業の値打ちが正しく認識される。 インベスター・リレーションズはアナリスト・ミーティングを行うことでなく最も重要なことはいかに株主総会を実効あるものにするかといことであろう。特に大株主は配当が少ないのなら取締役の案を承認しないなど「考えていること」を「実行すること」が必要。生保協会などは常に「配当は少ない」と統計を発表しているが、株主総会で案を否決や反対した話はきいたことがない。言動を一致させて貰いたい。米国の年金基金から具体的な要求が株主としてエージェントに届いている時代である。保険や年金の利用者にたいする忠実義務を果たすためにも運用者は株主総会で発言しなければならない。サイレント株主でいられる時代はもはやない。大株主も持ち合い株主も発言しなければ身がもたない。 投資家は自己責任を貫くのは言うに及ばないが、「売れる自由」がない保有はもはや投資でない。「買う」も「売る」も発言である。エレベーターを購入して貰ったから年金の運用比率を引き上げるなどという機関投資家の行動は「公私混同」であり決して良い成果はえられない。
要するに証取法上の利益は株式取引のために正確に計算しなければならない。税金を払うために出来るだけ少な目に計算された利益では役に立たない。税金の計算から独立したというか解放された計算をすべきである。 ところでわが国の企業経営は一つの事業を基に経営を多角化し発展してきた。主に生産を或いは販売を子会社にし「事業持ち株会社」を展開してきた。これに従って会計は連結会計が必要不可欠になった。こうしてわが国の連結決算制度は単独決算の「補助資料」としてスタートした。今日では連結は単独に合体され、「見やすく」なった。しかし、いかんせんわが国の連結制度はいまだ単なる証券取引法の有価証券報告書の補助資料にすぎない。もともと連結決算は「純粋持ち株会社」の会計方法であり、これが認められて初めて価値が出る。わが国は純粋持ち株会社は財閥解体とともに認められていない。商法も税法も連結を認めていない。連結はいわば変則的利用である。 これに対して欧米では連結決算が主流。国際会計基準もすべて連結決算で語られている。こうなると自ずから答が出てくる。大胆にいうと証取法上の会計は連結決算一本とし、単独決算は廃止する。単独決算は製造原価明細書や販売費・一般管理費という明細書が添付されており、これが損益分岐点分析、付加価値分析を可能にしている。経営分析に欠かせないデータである。連結決算でも製造原価明細書や販売費・一般管理費費明細書を作成できる。わが国のように垂直的系列の場合これらを作成することは欧米のようにM&A型の異形種の水平的系列より容易である。しかし連結決算のセグメント会計を充実させて部門別製造原価明細書、同販売費・一般管理費を開示させるのもよい。幸いわが国のセグメントはその数は2ー3と少ない。米国のようにM&A(買収と合併)で異業種のセグメントを数多く抱えるのとは異なる。 連結決算は現在SEC方式で作成している会社20社が日米間の「相互承認方式」協定で1996年から日本方式に切り替えられる。一方IOSCO(国際証券監督者機構)はIASC(国際会計基準委員会)の基準を正式の基準として承認する方向にある。IASC基準はグローバルな資金調達に必要になるが、極端な場合連結決算を3種類も作成しなければならないことになりかねない。連結一本に絞るにしてもこれでは効果が薄いので、やはり国際会計基準に統一してはどうか。これですっきりするはずである。 同時に国際会計基準は欧州大陸各国がまだ徹底されていないので独仏などIASを守るよう説得するとともにアジア各国が遵守するよう仕向けなければならないし、多額の投資を求めている中国にもIASCに参加させなければならないだろう。これが実現してはじめて会計の国際的調和が達成される。
そこで情報の仲介者が登場する。企業情報だけでなく経済・産業・市場情報を調査・分析・評価しこれをもとに予測する。株式アナリストは株価の予測を平均株価より「上がる」、「下がる」、「同じ」という形でこれを行う。アナリストはファンダメンタルとして企業の収益を予想する。また資産のアロケーションやポートフォリオの選択もアナリストの仕事になっている。 債券の格付けアナリストは債券の発行体の信用状態を調査・分析し元利支払能力を評価、AAA、AAなどの分かりやすい記号で信用リスクの程度を示す。 ジャーナリストは新聞・雑誌で企業収益予測を行う。企業体質の取材・分析を行い、原稿を書く。新聞ジャーナリストは企業の不正の解明に力を注ぐ。行政・立法・司法に次いでジャーナリスムは「第4の権力」といわれるが、その存在は「在野性」があってこそ認められる。「情報遍在」を「情報透明」にジャーナリスムは在野的精神を発揮して遂行しなければならない。アナリストは属する証券会社などから「独立」しなければならない。ジャーナリストも行政や企業の「リーク」にたよる記事ではなく「正当に批判」することがジャーナリズムに不可欠。 アナリストもジャーナリストも道具としてデータベースを用いるのが分析・予測に役立つ。データベースもディスクロージャーともに(1)一定の定義に基づき一定の時期にデータが更新される(2)全社網羅的に適用される(3)タテ・ヨコ(クロスセクション・ヒストリカル)分析可能ーーなど共通点が多い。今日ではデータベースは欠かせないものになっている。ディスクロジャーの拡充はデータベースの発達とともに伸びる。発行者がデータベースでディスクロージャーを行うのも良いが、データベースはしっかりした定義で作成されていなければならない。そうでない限り意味がない。
情報はまたネットワークを形成し産業と産業を結び、産業の効率化をもたらす。例えば預金業務、貸し金業務、為替業務そして余資運用業務(広範囲の産業といってもよい)を情報システムで結べば一つの企業に対する金融機関のサービスの効率化が容易に可能である。工業社会は大量生産によって「規模の経済」を得た。非工業部門の金融機関が預金を、あるいは貸付金をそれぞれ「増やすこと」で「規模の利益」を追求したバブル時代までは「情報」による「範囲の経済」を知らなかったにすぎない。コンピューター・メーカーの勧めでシステムに「勘定系」と「情報系」をつくり情報を台無しにした。「勘定系の情報」が金融機関に範囲の経済をもたらすにもかかわれずである。情報社会はこのように情報によって「範囲の経済」を得る。 しかし情報は公開されなければ情報社会は成り立たない。秘密主義は閉鎖社会しかもたらさない。中世的暗黒社会では経済・生活の発展はない。情報公開は情報化をもたらし、情報化は自由化をもたらす。政治の世界で情報化が民主主義をもたらすように経済の世界では情報化は市場経済をもたらす。「情報公開論」は情報を軸に周辺の学問を集めその意味と効果を論じ、方法論を導くものである。会計学は企業の経営状態を正確に計数で表現するシステムであり、ポートフォリオ理論は富の配分を効率的に行うための考え方である。「情報の対称性理論」はより直接的に大切だ。いずれも情報公開理論には欠かせない。情報理論や情報通信技術も重要である。情報経済学もまた情報公開論の基礎である。規制と情報公開の関係もさらに理論的に解明されなければならない。
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