ディスクロージャー研究学会



(青空に物事を晒すと虫干しされ綺麗になる)

文書No.
941128

吉村光威著 「マーケットをつくる市場経済」

    「大阪経済学」(経営書院、94年11月28日刊)第五章 

     

売るべし、買うべし、休むべし
 大阪の商売はこの船場の格言に象徴される。商売というものは売って売って売りまくってから、つまり客を十分見つけてきてから仕入れ(買え)よと。それでも買いは十分間に合う。客がどこにいるのか分かりもしないのに仕入れて(作って)はダメ。相場を張るにもコメ相場も綿糸相場も株式相場も「買い」からはいるのは誰でもできるが、売るのは難しい。今が高値か、もっと上がるのではないか、そして特にむずかしいのは見切り時。損をしているだけになかなか踏ん切りがつかない。いっそのこと「先に売ってあればよかったのに」とさえ思う。先物相場はあたりまえだが、安いときに仕入れ高いときに売ると儲かる。先に買わなくてもよい。逆に先に高値で売っておいて後から安値で買い戻せばサヤがとれる。現物が手元に沢山あるのであれば先物で売りヘッジをかければよい。先物ばかりか実物の世界も同じ。買うという行動は百貨店やスーパーで素人でも毎日やっていること。売るのは専門家の仕事。セールスマンがこれを行う。組織的には大阪では「問屋」が古くから幅をきかせてきた。


値段の交渉が買い物の第一歩
 余談だが、今でこそ商品には定価がついておりこれに従順に従って買い物をしているが、かっては大阪では「値切る」のがあたりまえ。買い物は「値決め」つまりプライシングから始まる。現在香港やシンガポールで買い物をするとき「プライシングは二度やらねばならない」。一回目は商品の価格、二回目は通貨。ドル払いなら米ドルと現地通貨の価格。円払いなら円と現地通貨の交換値。宝石でもハンドバッグでも商品の値段は値札は実際の値段の大体二ー三倍とみてよい。喧嘩腰の値段交渉こそが売り手と買い手の腕のみせどころ。

 株の町北浜の取引所の周辺に八尾あたりの田舎から植木をリヤカーに積んで行商にくる。昼時ともなると場立ちがリヤカーを囲む。場立ちは植木屋に一鉢の値段を聞く。この時場立ちはジッと植木屋の目を見る。チョットでも動揺があるとすかさず半値を叫ぶ、植木屋は一瞬心が揺れる。すると場立ちはチョット値をあげる。こうして植木屋の最初の呼び値の六割位の所で鉢を手にいれる。ゲキタク売買で鍛えているだけに手慣れたものだ。植木屋も最初から相当ふっかけているのだからここは「無茶や」などとわめきながらも品物を渡す。取り囲んでいる大衆は「北浜は生き馬の目を抜く」ことを実感する。場立ちの顔が立つしアホな植木屋は実をとっている。この一瞬の値決め交渉は火花が散る。買い物の面白さでもある。市場経済は価格の決定メカニズムが市場に機能していることと見つけたり。

 かつて終戦直後の鶴橋の国際マーケット(国際といっても朝鮮半島の人々ばかり)ではこれが横行していたものだが、大阪人は「プライシング」こそが買い物の最大の楽しみと考えていたものだ。普通の素人でもこうだから専門家の商人は尋常のことでは引き下がらない。ちなみに東京では値切るのは恥。定価が幅をきかす。東京にある某研究所の経営コンサルタントが嘆いていた。或大阪の会社の診断と指導を行ったところ、その結果報告を際限無くやらされ「きっちり根こそぎもっていかれた」という。東京なら報告書を渡せばそれでお仕舞、大阪は元をとるまでしつこく頑張るそうだ。コンサルタントの料金はそれなりに定価はあるが診断・指導の中身は濃淡があり客からすればいくらでも問題を指摘できる。その意味で「定価」はない。なければ大阪人の独断場である。中身をより多く引き出し値段を実質的に下げる。

 つけくわえて苦言を呈すれば最近、東京のスーパーでもコンビニでもあるいは百貨店でもお金を払うと決まって返ってくる言葉が「お預かりします」。「頂きます」とはいわない。「千円お預かりしてお釣り三百円をお返します」ならまだしも、釣り銭なしの丁度払っても「丁度お預かりします」というこたえが返ってくる。「千円お預かりして七百円いただきます」とどうしていわないのか。「丁度頂きます」と言ってほしい。お金を預かるのは郵便局か銀行で何時かは「下ろす」ことができる。しかも金利がついてくる。あるファミリーレストランのレジの女の子に聞いてみると「私が貰うんではなく店のために私が一時お預かりする」と言う意味で「私は経営者ではないから頂く訳にいかない。お客さんも私が頂くと予想していない。私がポケットにいれるわけではない」というハッキリとしたこたえが返ってきた。店長に確認したところ「マニュアル通りだ」という返事。大阪では「おおきに」の一言で解決する。店員は社長や店長に代わってお金を頂くという意識が根底にある。物を売ったのだからその代金頂くのは当然で預かるという発想はない。「売る」ということの取り組みかたが根本的に東西で異なる。


まず販売ルートを開拓
 道頓堀の食堂「くいだおれ」は大阪の象徴的な店としてつとに有名だ。なかでも店頭のチンドン人形で知られる。しかし、かつてはこの店のおやじさんが店より有名であった。今は死んでしまたっが、山田六郎といって兵庫県会議長もやったことがあると本人は筆者に語ったことがあるから一角の人物であった。大阪で中小企業担当の駆け出しの記者をやっていた昭和三十年代の終わりこの人物に「ぶつかった」というか「巡り会った」。彼のやったことはまさしく市場をつくり、商品をつくり、そして仕入れるという「大阪市場経済主義」そのものであった。

 昔から鶏肉は「かしわ」といい珍重されてきたが、このころ登場したのがブロイラー。飼育期間が数カ月と大根並みの短期栽培(?)だから農家にも関心が高まっていた。ここに目をつけたのが山田氏で、まさに「大阪方式」というか「くいだおれ方式」でこれに進出した。まず大阪はじめ全国各地の肉屋の店頭に小型の冷凍ショウケースを置いた。ショウケースにはしっかり「くいだおれブロイラー」としるしてあった。こうしてまず販売ルートを確立した。まず「売るべし」というわけである。

 次に彼は「生産」拠点を確か東淀川につくった。この工場は徹底的にオートメ化されていた。例えば、焼き鳥などは容器の底から葱の次に鳥肉、次に葱、そしてまた鳥肉が串一本分並べられるとベルトコンベアーの一方からからサッと竹の串がこれらを貫き真っ赤になった炭火の長いコンロを回転しながら突き進む。こんがり焼けた頃にソースの海にはまり込む。この間人間は「肉と葱」を供給するだけ。一定の時間がくるとソースの海から整然と焼き鳥が受け皿の網に盛られる。

 コロッケも同様の工程で均一に切断され丸められたミンチの塊が次々と200度はあるとおもわれる油の細長い槽にはまる。コロッケは十数分もこの油槽をやけどしながら泳いでくるとこんがりとうまそうな顔をしてクレーンで引き上げられる。手羽焼きもまたしかりであり、ブロイラーの生肉などは朝飯前であった。大量生産されたブロイラー製品は次々トラックで例のショウケースに向けて運び出される。


「新聞十万部買いたい」
 当時は主婦の店ダイエーが「流通革命」の先駆者としもてはやされていた。この革命の文字をつければ記事は大きく扱われたものだ。そこで筆者は「ブロイラーに流通革命の嵐ーー生産・加工・販売を一本化」という記事を中小企業面トップで書いた。ここからが彼の真骨頂だ。彼の商才はただものではなかった。彼は「売るべし」の次の行動「買うべし」に猛然と走った。まず私の書いた記事が掲載された新聞をなんと十万部買いたいいってきた。当時日経新聞は大阪では印刷を開始したばかりでそんな部数を定期購読者向けにさえ刷っていなかった。売れ残りを集めても一万部もなかった。

 山田氏の強い要請であったが前代未聞のことで古新聞を十万部も印刷することは後免蒙り半分の五万部で我慢して貰ってこれを別途印刷し渡した。勿論氏は正規の料金を支払った。後日店に氏を訪ねた時あの五万部をどこへやったのか聞いたところ・・・

 「記事に赤マークを付けて全国の養鶏農家に送った」との返事。うまいパブリシティである。「かしわ」といわれるあの硬い肉を生産していた農家に柔らかいブロイラーに切り替えるよう迫った訳だ。こうして瞬く間に全国にブロイラー農家が広まった。つまり彼は最後に「仕入れルート」を仕上げたことになる。販売のメドをつけてから仕入れるという商売の鉄則をキチッと守っていた。

キンギョク(?)料理
 余談だが新製品開発には並々ならぬアイデァを注ぎ込んだ。例えば「金玉料理」である。文字どおり鶏のキンタマを特別料理に仕上げたものだが、これを特許庁に申請にいったところお役人から「そういうふざけた名前では受け付けられないし、もともとキンタマは重箱読みで役所は受け付けない」と断られた。しかし粘りに粘って結局「金玉料理」の実用新案権を獲得した。ただし呼び方はキンタマではなくキンギョクであった。キンギョクなら音読みで統一されておりようやく落着した。ある日くいだおれにお邪魔したときこれをご馳走になったことがあるが正直いって「おいしい」とは思わなかったが、この飽くことなき商魂は忘れられない。


休むべし
 「売るべし、買うべし、休むべし」という格言のもう一つの重要な示唆は「休めべし」である。相場が荒れて見通しがつかなくなったときとか「休む」のが一番。無理して深追いするとケガする。売りも買いも「休むべし」ということ。これが口では簡単なことだが、実行は難しい。これをキチット遂行した商人だけが生き残る。生前、松下幸之助氏は「経営は教科書にかいてあることをチャンと実行し、実現すること」と語っていた。やさしことのようにみえるが実行するのが肝心。腹八分目の経営は日頃の蓄積で余裕があるから無理しない休むべきときは休むので大きな失敗はしない。「牛のよだれ」である大阪の商売を長続きさせるコツであろう。


「問屋制資本主義」
 大阪の資本主義は初期資本主義の「問屋制」。これは大阪が繊維という商品を中心に栄えたことに関係するのかも知れない。紡ぐ、織る、染める、縫うという複雑な工程を経るので強力なコオーディネーターが必要になる。問屋は金融を含めこの役割を受け持った。問屋は知恵を絞って売れる商品を企画し川上から川下まで目配りしながら決断と実行を繰り返す。しかし半製品は自らの工場はないからぐるぐると加工業者の間を駆け巡る。問屋は総合商社の原型である。機能が総合化されているのが今も昔も変わりない。


工場は倉庫の集まり
 プリファブリケーション、つまりプレハブがぼつぼつ流行だした昭和四十年代初めころ大和ハウスは奈良に工場を建てた。プレハブというのは「予め用意された」という意味であるからその工場トなれば相当な工程を抱えていると思われ、まして家となれば産業のアンカーと呼ばれあらゆる製品を原材料として網羅しているだけに注目された。もう一つ注目されたのは工場の労務管理。社長(当時石橋信夫氏)は旧富士製鉄が広畑工場をつくったとき一つの逸話があるからだ。富士鉄の永野重雄社長(=当時)に式典の最中に注文をつけて、それがキッカケで永野氏に認められたことがあった。その注文とは「随分立派な工場だが私なら今直ちに生産性を一二%ひきあげられる。」と大見栄を切った。。

 彼の提案はこうだ。行員のタイムカードは門のすぐそばにある。門から職場まで距離があり、タイムカードを押してから実際仕事につくのに三十分かかる。帰りもまたしかり。一日行員一人あたり一時間の損失は大きいというわけだ。永野氏は大いに喜び早速この意見を取り入れ、タイムカードはすべてハンドルのそばに置いた。大和ハウスの大株主に新日鉄がなっているのはこのためである。

 石橋氏の奈良の工場は相当工夫がほごこされていると期待されたのである。ところが「これが工場か」と目を疑うものだった。工場はどこにもない。あるといえば、鉄骨や木材を寸法にあわせて切る音、ガラスを同じく寸法通りに切断するなどかすかにそれらしい感じがするだけ。工場の中央には広場があり各棟から家のそれぞれの部材が一軒分中央のトラックに次々と積み込まれる。大体トラック一台一軒分で次から次へと積み込まれ広場を出ていく。木材、鉄骨、ガラス、アルミなど部品はそれぞれのメーカーが大和ハウスから土地を借りて店を出しているのだと言う。「勿論地代を頂きます」というわけで工場とはよくいったもので事実上はプレハブ会社という問屋にうまく組み込まれてしまった訳だ。トラックが現場につけば田舎の工務店が段取りよく待ちかまえていて早速棟上げし組み立てていく。新産業プレハブは「注文から完工まで」まさしく問屋制資本主義である。新しい産業ではあったが、方式は昔ながらの問屋方式である。大和ハウスの従業員は極めて少なく労務管理で問題が生じるはずもなく設計図と伝票数枚あるだけ。同じ大阪本社の会社であるが旧財閥の日窒系から生まれた積水ハウスは「正直に」プレハブの文字どおりの工場を琵琶湖の近くに作ったのとは大いに異なる。トヨタ自動車の工場も例えば塗装工程は関西ペイントの設備で車一回ドブンと塗料の海につかっていくらかをトヨタは関ペに支払う。カンバン方式のトヨタの考えか大阪企業の関ペのアイデアか、いずれにしても合理的な工場である。


経済システムのソフトがある
 「総合商社冬の時代」とか「問屋無用論」などいわれるが、時代の要請に応えられないのは何でも消え去るのみである。道修町の薬問屋も新薬は外国か他社から導入して発展してきたが競争激しくなり独自の新薬開発しか生きる道がなくならばおよそ問屋に似合わない「研究」もやらざるをえない。それを独自開発商品として無理して売り出すと薬渦事件を引き起こし取り返しのつかない状態になる例が最近あった。くいだおれブロイラーも大和のプレハブも新しい「問屋」といえる。「人を動かし」、「企業を動かす」才覚が機能を用意しているのである。現場を知っていて机の上でソロバンをはじける強みがある。この場合参加したものはそれぞれ「分担」すると同時に「分け前」もある仕組みである。バブル崩壊とともに不況が長期化するなかで鉄鋼大会社はようやくホワイトカラーの首切りにはいったが「現場」もなければ「ソロバン」もないと結局こうなる。問屋制資本主義という経済社会システムのソフトウエアーが大阪経済の本質ではないか。


香港・台湾型だが、知識集約化しグローバル化
 香港や台湾は繊維、プラスチックなど身軽な産業を軸に経済を発展させてきた。香港は1997年中国に返還されるが立場は不安定、台湾は去就は未だ決まらない。資本はリスクを嫌う。台湾も香港も「いつでも逃げられる」投下資本の少ない産業中心にならざるを得ない。台湾は重化学工業は政府のやること決め込んできた。これに対して韓国は製鉄、造船、自動車と日本が世界一になった産業を相次いで起こし日本を追い越せとせっせと励んできた。半島の「事大主義」が重化学工業化を急がせた面は否めないとしても、繊維、薬、家電、プレハブ、スーパーと歩んできた大阪はいわば香港・台湾型、東の重化学工業と対比できる。勿論住友や川崎の旧財閥は戦後急速に重化学工業に注力してきたが、先に述べた「大阪産業」はその特性は華僑的である。

 また繊維、プラスチック、家電そしてパソコンは香港・台湾・大阪の共通的産業。もともと大阪がこれら地域に発注したものである。いまや円高からこれら地域で現地生産するのが増え「産業の空洞化」がいわれているが、現地生産の原点はもっと前に遡る。戦前はともかく、たとえば「しぼり染め」。手間のかかるこの作業は三十年前いち早く韓国に下請け生産に出された。当時「安い韓国しぼりに負けた」とよく騒がれていた。また変わったケースでは韓国に漬物の栽培から加工、包装まで一貫態勢の技術指導を行いいわゆる「開発輸入」を農作物にまで手をのばした。これを「空洞化」といえば「空洞化」は戦後ずーとそうであった。中谷巌一橋大学教授は「東西冷戦の終結で共産圏の安い労働力をてこにした安い製品がどっと押し寄せ国内に価格破壊をもたらしている」という。日本はこれに正しく反応していないとしている。しかし大阪はかねてこの地域に根を張り縦横無人に柔軟に対応している。松下などは台湾、香港を含め中国沿岸自由開発地域の電器、電子部品の現地生産の可能性、コスト、納期など「下請けマップ」を用意しているといわれている。大阪ヘッドクォーターが付加価値を管理しているわけで、高度に知識集約的といえよう。産業の知識集約化はすなわち「頭で勝負」ということだ。大阪は肉体的労働による生産より頭の体操による生産に傾きつつある。空洞化というより中谷教授のいうようにまさに「グローバル化」といったほうが当たっているのではないか。


情報産業は大阪に向いている
 ところで二十一世紀に向けて唯一の成長産業とめされるマルチメディアを含む情報産業の在り方を考えてみよう。データベースや音声や動画、静止画、新聞などをネットワークを通じコンピューターに流れる。つまり情報、システム、それにこれを動かすソフトが情報産業の三要素である。これらを効率よく組み合わせるコオディネーターがなくてはならない。

 ところでわが国は情報の産業化(情報で儲けること)と産業の情報化(OA化)の過程で大きな失敗をやらかした。というのは日本の企業は情報化の波に乗って超大型のコンピューターを相次いで導入し、同時にいわゆる社内システムを何百人を何年もかけてソフトを作らせた。その会社しか使えない独自のシステムをつくった。大会社が一斉に情報化したため瞬く間にソフト要員不足のソフト・クライシスに陥った。加えて三年もすると「第三次オンライン」などといってシステムを改造している最中にバブル経済が破裂して噸座しているのが現状。もともと国民経済的には一つ作り、それをみんなで使えば経済的だったのをちょっとずず違うの一斉に作ったからいけなかった。

 米国ではソフトは汎用が市場の七十%ー八十%。日本はかつては一品受注が九十%、汎用は全然売れなかった。バブル崩壊後に日本でもダウンサイジング時代にはいり汎用ソフトが盛んに用いられるようになり情報産業は「正常化」しつつある。

 さてわが国のソフト系情報産業で最初の上場会社CSKの会長兼社長の大川功氏は大阪・船場の出身。CSKは最初はハード操作のオペレーター派遣業みたいなことをやっていたが、そこは船場の「問屋制」が染み着いた大阪人のこといつのまにかコンピューター・メーカー、通信システム、お客を結集して、情報産業のコオーディネーターにおさまっている。

 「情報産業というのは関係者が朝集まり、昼に話し合えば、夜には合弁会社ができる」とはかつてIBMのJ.F エイカーズ会長が全米コンピューター会議で演説したことがある。これは十数年前に既に今日のネットワーク社会、ダウンサイジング時代を予想して発言したものだった。当時の超大型のコンピューターが一千九百九十年代には机の上のコンピューターでも同じ機能を発揮できると明確に予言していたのをハッキリこの耳で聞いた。(それにしてもダウンサイジングの波に乗れなかったのは何故か。販売力が強すぎたからか、格好の分析対象である)。

 このような情報社会は経済や経営のやりかたをこれまでのトップ・ダウンーボトム・アップのハイアラーキー社会から上も下もなく有機的につながっているネットワーク社会に変化しなければならない。繊維製品で彗星のごとく登場した伊ベネトン社はまさにネットワークでむすばれている「ネットワーク会社」である。紡ぎ、織り、染め、縫うという複雑な工程をうまくつなぎ合わせて形成してきたのは先に述べたように大阪の船場・島之内の商人が得意としてきたシステム。百年も前からやってきたことではないか。もっと斬新なデザインさえ生み出せば大阪はベネトンに負けない。繊維産業はもっと情報産業化すればまだまだ発展のチャンスはあると確信する。


「先物」ーー大阪とシカゴ
 金融・証券界で「フューチャーズ」といえば未来のことではなく「サキモノ」(先物)のこと。イマ(今)お金とモノを交換する(現物取引という)のでなくサキ(先)に受け渡しするのをイマ値段決めて契約しておくのを先物取引というが、江戸時代大阪の米の取引は実は今日の先物取引。世界最初であった。株式の取引にこれを応用したのが戦前の清算取引で大きな商いが毎日あった。大阪では特にこれが市場の大半を占めたときもあった。ところが戦後占領軍は日本側の(1)現物取引(2)信用取引(証券担保金融)(3)清算取引の再開要請に対して「キケンだから(3)の清算取引は禁止」した。敗戦国の悲しさ復活できず時を刻んだ。

 先物を金融・証券界に再び登場させたのはノーベル経済学賞を受けた金融論のフリードマン博士。戦後のブレトンウッズ体制の通貨の固定相場が崩壊して変動相場に移行するとともにシカゴマーカンタイル取引所(CME)に通貨先物取引市場を開設、瞬く間にニューヨークをはじめとするの現物市場(フォワード=先渡市場)に肉薄した。その後株式の先物取引に進出する。シカゴ先物の大立物レオ メラメッド氏(元シカゴ・マーカンタイル取引所会長)はかつて筆者にはっきりいった。

「我々の先物は先輩のオオカカの米相場に学んだ」と。
 占領軍といっても米国中心、日本の先物取引を禁止している間にシッカリ研究してお先に失礼とばかりに金融・証券に応用した。今やオプション取引を加え「デリバティブ」(金融派生商品)として全盛を極めている。

 余談だレオはドイツ系ユダヤ人でナチスの迫害から逃れて、あの故杉原千畝リトアニア代理大使(当時)に助けられ日本経由で米国に渡った一人である。「4歳に横浜から東京についたときは嬉しかった。あの時の東京駅と同じだ」と車の中で涙ぐんでいたことがあったのを思い出す。氏は日本人と大阪には特別の感情を抱いていると思った。こんなこともあって大阪証券取引所で日経平均先物市場を開設するに際してレオにキーアドレスノート(基調演説)をお願いした。そしてあの有名なセリフが氏の口から語られた。

「先物は故郷に帰ってきた」と。
 レオといえば民主党の町シカゴのなかで先物業界だけは共和党で固め、レーガン・ブッシュ政権に日本でもなじみの深いクレイトン・ヤイター氏(当時CME社長)をまずUSTR(通称代表部代表)に送り込んだ。ヤイター氏は当時「私は農務長官をやりたい」と筆者に語ったことがあったあったが、USTRのあとしっかり農務長官のポストをつかんだ。祝電を送ったら「日本の米の輸入自由化を」と迫ってきたことがあった。ヤイター氏もドイツ系ユダヤで「ヤイターではなくヨイターだ」と日本の外務省のいいなりでマスコミのこの呼び方にたえず不満を持っていたものだ。ともかくヤイター氏はCMEをやめる前の日に日経平均の先物取引の権利を日経から許諾する契約にサインした。


指数操作論も登場したが・・・
 さて、株価指数先物を取引初めて以来、先物シカゴ対現物のニューヨークの対立はあらゆる場面で激しくなった。特に株価の大暴落をきかっけに「先物悪者論」で厳しく対立した。このことは後でふれるが、株式先物に関する東京と大阪の鋭い対立の構図と同じというか、米国のシカゴ対ニューヨークの対立の構図をそのまま「輸入」したようなものだった。

 大阪に日経平均先物を導入しようと猛烈に運動したのは山内大証理事長(当時)だが、筆者は東京に上場させたかった。野村の大幹部も「トピックス(東京証券取引所の株価指数、後に先物の対象になったが商い少なく事実上失敗)では全く相場が分からない」と同意していた。しかし大蔵省の審議官いわく「株式先物は東京の指数、大阪の平均、健全な競争すれば先物の発展にむしろプラス」としつこく頼まれた。こうした誕生した日経平均先物はアッというまにCMEのそれを抜いて世界最大にのしあがった。千九百八十年代後半のあの大相場のころであった。「いつまでも上がるわけがないのが株価」だから先物市場を容易しヘッジの機会をつくろうというのが日経の判断であった。 もともと株式投資には二つの大きなリスクがある。個別銘柄の事情(例えば経営危機、技術開発)による株価の変動と市場全体の事件(例えば戦争、金利変動)による変動。前者は複数の銘柄に投資する(ポートフォリオという)ことで変動が相殺されて、儲けが大きくないが値下がり損も少なくて済む(マルコビッツ博士などノーベル賞を受けたモダン・ポートフォリオ理論)。もう一つのリスクはシステマティク・リスク(組織的リスク)と呼ばれる物でこれはまさに株価指数先物でリスクを軽減できる。異常に高かった日本株にこの導入はうってつけだった。

 こうして千九百九十年代の株価暴落を迎えた。先物はいかんなくその機能を発揮した。先物を利用して損を少なくし、あるものはまたかえって先物で大儲けした。ゼロサムゲームだから儲けと損は同額だった。若いトレーダーが数学の才能をいかんなく発揮して大儲けした。不幸だったのは比較的上手に儲けたのが米国の証券会社で、損を蒙ったのが「いつでも右肩上がりの相場」を願う日本の証券会社だったこと。日本側の「勉強不足」もあったが、損した側は黙っていない。いつものやり方で自民党を通じ官邸に「何とかしてくれ」と頼み込んだ。無知な官邸は訴える側の話を鵜呑みにして「これは指数(つまり日経平均)が悪い」と犯人にまつりあげた。それを取り引きしている大阪証券取引所にも飛び火した。学者のなかにも「指数悪者論」をいうのがでてきてなかには「平均株価操作あり」とまで言い切るのまでいた。こうして大阪の日経先物は瀕死にいたるまで規制されついにシンガポールの日経先物より商いは少なくなった。


指数操作に逮捕者なし
 しかし筆者のみるところ株価操作で誰も証取法違反で逮捕されていないし、検察が動いたと聞いたこともない。むしろ外国証券会社と日本の証券会社のルールが異なるところがある。外証に働いている元日本の証券会社に務めていたディーラーによると「日本の時はがんじんがらめだったが、ここにきてなんと自由かと驚いている」とよく聞いた。事情通によると日米貿易・経済交渉が難航しているとき「大蔵省関係は問題ない」ようにするため「外証を優遇していたのではないか」という。米SECの要求は何故かおとなしいものばかりだったのと符号すとおもうが下スの勘ぐりか。国内でも証券四社の手を後ろ手に縛りその間に外証に自由に商いさせた」とさえいうものがいた。それにもともと株式の現物は日々の商いの半分は個人投資家。これに対して先物は厳しく個人の参入を規制している。この二つの大きな「食い違い」はいやが上にも両者の価格形成を歪めた。外国人と日本人のルールの違い、現物は個人、先物は法人の相場では公正な市場とはいえない。失政といっても過言ではない。



PKOにミラー博士も大笑い、だが失望
 失敗の上塗りはPKO、プライス・キーピング・オペレイションつまり株価維持政策。平和維持政策ではない。「政府系の資金で株を支えているから、銀行さんよ今日は売らないでくれ」と大蔵役人からテレホンがある。生保にも電話がかかってくる。PKOといえばノーベル経済学賞のミラー教授に会ったとき「PKOを知っているか」というと怪訝な顔をして「平和維持軍?」というので、くだんの話をすると大笑い。日本の市場の後進性を大いに嘆いていた。筆者はむしろPKOがしりぬけにならないように先物を死に近い形に規制したと思っている。お役所も東証も腹の中ではこれに合意するであろうと事情通から聞いたことがある。

 しかし残念だったのは比較的「自由市場」といわれる大阪の対応。日経平均に代わって日経三百なる指数(失敗したトピックスと同じ計算方法)が開発され、上場されるにいたった。この三百指数は日経平均やトピックスと違って機関投資家から最も嫌われる「ハイリスク・ローリターン」ポートフォリオであった(大証の先物資料のうち青山護横浜国立大助教授分析データ)。危険が大きい割には儲けが少ない「銘柄の組み合わせ」(ポートフォリオ)ではどうにもならない。トピックスと同じく「これも相場がわからない」こともあり同じく失敗の浮き目にある。これが第二の失敗である。


規制撤廃で日経先物生き返れ
 大阪大学の蝋山昌一教授によると証取審委員の首をかけた「裏約束」があって一年以内に三百がダメなら二百二十五(日経平均)にするのだそうだが、むしろ早くそうするのがよい。大蔵大臣はあれからもう何人も代わっているのだからこの辺で役人の失敗を素直に反省し思い切った「規制緩和」をすべきだ。日経先物のすべての規制を外し大阪らしい自由な取引が出来るようにすべきではないか。とくに個人にはオプション取引を解放してはどうか。現物のこの薄商いはどうにもならない。競馬や競輪よりましな取引ではないか。

また東京の現物、大阪の先物と機能分化する時期ではないか。

「生産」より「運用」を
 先物は資産や資金の運用の手段。世界最初にこれを考案し、200年後に再び復活させた大阪人。200年前といえばアメリカは国家の体をなしていなかったことを考えると大阪人の運用ソフトは大したものだと思う。もともと日本人は農耕民族で「浮利を追わず」などといって「生産」を重視してきた。物作りが尊ばれ、戦後あの廃虚の中から鉄を作り、船を作り、石油をプラスチックにし、家電、自動車の生産で世界一になった。作ることが一貫した日本のテーマであったといって過言ではないか。

 作るに作ってはこれを世界中に大量に安く輸出した。その結果、相手国からダンピングとののしられ、挙げ句の果てに円高で輸出の円代金の手取りは大きく目減りした。円の「国力相場」などと喜んでいるが、これは輸入代金の支払も同じく大きく減少してこそ国民経済に値打ちのあること。円の為替相場が一ドル百円そこそこ、ところが円の購買力平価は百八十円(OECD=経済開発協力機構計算)。生活者にとって輸入品が超割高。商社は実は「輸出で損して輸入で儲ける」のが戦後一貫して貫いてきた商売のコツ。円高以降「並行輸入」や「個人輸入」で生活者はなんと輸入品が安いか思い知った。

 世界一の生産者が円高で大変な苦労してきたが、生活者は円高のメリットがないまま、一方でユダヤ人はその円を運用して大いに儲けた。しかもかつて大阪が開発したツールを用いてである。生産者一辺倒ではもはややっていけない。運用をもっと身につけねば、苦労して「生産」で稼いだ所得は泣いている。その意味で大阪の株価指数先物の空洞化はもってのほか。株価指数先物の規制撤廃と日経平均先物の復活が切望される由縁である。いまやデリバテブ(金融派生商品)全盛であり、この波に乗り遅れてはならない。大阪は二百年ぶりに「次のソフト」を開発しなければならない時期にきているからでもある。


上京と東下り
 ところでサラリーマンなら転勤で大阪に赴任した人、逆に東京に転勤した人それぞれ感慨があるはずである。大阪から東京へ転勤した人が、転勤の挨拶で「上京」といわず「東下り」といって嫌われたり、東の枕詞は「鳥がなく」と「鳥が鳴くように野蛮な言葉を喋る国」といってひんしゅくをかったりしている。上方意識丸だしで平気で大阪弁を大声で喋るのが多い。東北人はテレビがこんなに普及して標準語(東京弁?)に慣れる以前、上京すると半年は何も喋らずジーッと我慢して標準語を覚え、ズーズー弁が直ってから機関銃のように話すようになるという。大阪人とは逆である。大阪人はこのため「ぜいろく」と逆襲される。東京転勤になった証券セールスマンによると大阪で「考えさして貰いま」と言えばこれは「断る」返事。ところが東京では「検討して条件を詰める」こと。諦めていた商談が成立して喜んだという話が多い。東京は何事も「建て前」が必要で「上(司)さえ」説得すれば極端にいえば中身は問わない。印鑑を三十個ぐらい押して「責任の重くのしかかる」建て前のリスクを分散する。これに対して大阪の商売は「本音」でやっている。ただし本音をむき出しにすると角が立つ。そこでやさしく「考えさして貰います」という。商売の言葉でもその背景を探ると基本的な姿勢の違いが浮かび上がってくる。東西の違いの最大のものはこの本音と建て前。大阪人は政治や国会には半ば諦めというか、バカにしているのか漫才師を選ぶ。本音丸だしだ。これに対して東京の政治家は「丸で大阪は痰壷」と強烈に反発する。某大手証券会社は北浜も兜も経験したのを重視している気持ちは分からないでもない。

 またどちらかというと東京人の「偽善者」にたいして大阪人は「偽悪者」と言う人がいる。けだし名言かも知れない。

「偽善」ーー本心からではなく、みせかけにする善事
「偽悪」ーーうわべだけ悪人であるかのように振る舞うこと 
いずれも「広辞苑」(第二版)による
 「ルワンダ難民救済基金募集」の振り込み用紙が郵便局の窓口にあってもよく似合うのが東京、東京のJR線で河内弁を無理に使って悪者ぶっているのが似合うのが大阪人。本音と建て前で生きる違いが表面化したのが偽善と偽悪の差か。

 ただ東京人にとっては大阪人の偽悪は我慢ならない。鼻につく。あれは「自信の裏返し」と受け取っている。大阪人は「そんな歯の浮くようなことはよういわんわ」と偽善を拒否する。偽悪ぶって漫才師を国会に送り込む。その国会議員が「建て前ばかり」のなかでつい「本音」をいうから舞台の漫才よりもっと面白いことになる。また大阪人は本音を聞かないと安心できない。それを聞いて「俺と同じだ」と心にやすらぎを覚える。それだから「偽善」は大阪人には成り立たなくなる。偽善で乙にすませるのは大阪人には苦手。てれててれて赤面する想いであるが、これが東京人の相手には全く通じない。「ケチ」だと誤解したり、表現力がないと罵ったりする。大阪人に言わせれば「そんな恥ずかしいことはいえん、人間の慎みを忘れたのか、恥を知れ」となる。この点では平行線だ。



京都と大阪の商売は全く違う
これが京都となると商売は大阪と全く異なる。ざっとあげると次の通り。
京都                大阪
間口が狭く奥行きが深い   間口が広く奥行きがない

現金は七割貯蓄       「現金担保」で資金を三倍に

国債が売れる        株が売れる

超保守的          革新的

着倒れ           食い倒れ

排他的           開放的

一現客が相手        馴染み客中心
 京都・室町の千切屋三家といえば伝統ある呉服問屋。呉服問屋のなかには昨今ではビルに建て替えるところもあるが、和風の店は間口は狭いが、奥行きは鰻の寝床。いけどもいけども庭あり部屋あり、住まいありで一体何処に迷い込んだのか分からなくなるくらいだ。店先は全体の二割か三割程度。一番大切な客は奥まで通される。

 これに対して大阪の店のレイアウトは間口が広く奥行き無し。このため店の前の道路を駐車場に使うから交通渋滞に陥る。これをもって大阪人は公徳心が無いといわれるが本町あたりは商売のためにはやむを得ない面が多い。まして店の前まで目いっぱい商品を陳べて使うから実面積何倍もの大きさになる。

 店の形がそそのまま商売のやり方を規定する。一億円あれば京都人は七十%を確定利付きの国債や比較的有利な郵便貯金に預ける。三割を商売に振り向ける。銀行や証券会社の京都支店長は専ら「金集め」に奔走している。金貸しははやらない。逆に大阪人は一億円を担保に三億円借りて資金を三倍にして商う。薄利多売で資金の回転を効かす。株の取引も「日ばかり商い」(朝買って昼から売る)が多い。ちょっとでも利が乗れば手仕舞う。利幅を効かす京都と全く生き方が大きく違う。

 京都が貯蓄性向が高いのは「応仁の乱」以来といわれる。明治維新の時もそうだったが王城の地は絶えず戦乱の巷であった。人々は保守的にならざるを得ない。タンス貯金で戦乱に備える。いつでも逃げられるよう身支度している。戦後京都は革新知事の時代が長らく続いたが、革新は保守の裏返しであると見破った人がいたが、同意する。自分達が保守的と見られたくない、革新的と見られたいという欲求が京都の人々に共通して強い。京都人が排他的なのと符合するところである。よそ者をなかなか受け入れない。仲間には入れない。家業でも番頭がよそ者なら決して何事も最後には任せない。血縁と地縁を守るーーこれが京都の基本。大阪は有能な番頭は重用する。

 京都は修学旅行生もいれると年間二、三千万人が訪れる。旅行客はいわば一現客。京都はこの一現客からいかに「お金を巻き上げる」(ちょっとどぎついことばだが大阪流で分かりやすい)かが課題。旅館に止めて、みやげ物を買わせて、お寺や神社にお参りさせる(拝観料が入る)かがテーマ。一人あたり一万円取るか、十万円集めるか課題。先斗町のバーは一現客は水割りいっぱい何千円だが、馴染み客は五百円そこそこ。客は先斗町に居るだけでも満足している。祇園の座敷に座っているだけで一生の思い出になるから文句はない。これが京都のソフトウエアであり、ノウハウである。京都は不特定大多数のマスを相手にしている。だからかマスコミを使うのがうまい。修学旅行生が忘れたちょっとしたくだらない物でも大げさに新聞に書き立てて貰って、わざわざ新幹線を使って届けたりする。美談が成り立ち「京都は親切」のイメージが出来上がる。それがまた客を呼ぶ。

 大阪は「商売は牛のよだれ」で長いつき合いがモットー。現金商売だから一現客でもキャシュを持ってくれば安く買えるが、ほんとうのつき合いの問屋と小売り屋は長い。長い中で信用がつくと掛け売りが始まる。掛け売りになるとしっかり金利を取り関係が一層強くなる。総合的なつき合いに高まり広がるというもの。

 京都は虚栄心が強い。食うより着飾ることに走る。京都の大店の夕食がお粥だったので驚いた客がいたが、何百万も帯を締めているとは気づかない。これに対して大阪の食は文化が違うといえる。江戸の寿司も名古屋のきしめんも大阪人には兵糧としか映らない。そば屋は東京に多いがあの汁はいただけない。醤油の海だ。これに対し大阪のうどんは汁が命。汁を最後まで飲むのが店に対する礼儀というもの。東京でこれをやると笑われる。「ぜいろくのやることは卑しい」と。それは文化の違いだ。醤油は飲めない。兵隊があれを飲んで下痢して訓練をさぼぼったものだ。

まだまだ京都・大阪の違いはあろうがきりがないので稿を改めるしかないだろう。


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