文書No.
951110
立教大学教授 斎藤精一郎
(1)大和銀行事件は単なる金融不祥事ではなく、日本の金融行政や、金融体制の構造的欠陥を象徴的に露呈している。米国の大和銀への厳罰的処分は、大蔵省に対する従来の漸進主義的なソフトランディング手法を転換すべし、との強いメッセージを含んでいる。 (2)冷戦後の市場全開時代にあって、世界最大の債権大国・日本は「市場原理」に準拠する新たな金融システムの再興に踏み切るべきだ。 (3)情報の完全開示、不良債権の短期一括処理、金融再編の環境整備など緊急改革を断行する。なお、公的資金の導入にかんがみ、これまでの瑕疵(かし)の最終責任は大蔵省がとるべきである。 十一月二日(米国時間)、米金融当局は大和銀行に対して、米国内での全業務停止命令を発した。このニュースは「文化の日」の静寂を突き破って、日本中に衝撃を走らせた。 これは大和銀行ニューヨーク支店が米国債不正取引に絡み約一千百億円の巨額な損失を出したうえに、隠蔽(いんぺい)工作をしていたことなどに対する米当局の異例の厳罰処分だった。 この大和銀問題にはここ数年日本で頻発してきた金融機関の不祥事のひとつだと片付けられない重大な論点が含まれている。住友銀行・イトマン事件にせよ、富士銀行赤坂支店事件にせよ、証券会社の損失補てん事件にせよ、これら金融不祥事はバブルの生成と崩壊の過程で生じた、いわば「バブル絡み」の事件だった。 だが、今回の大和銀事件の核心は一金融機関の内部管理体制のずさんさや一部従業員の不正行為を超えた、日本の金融行政や金融体制の有り様そのものに根ざしている。米当局が国際的基準からいって、意表を突く厳しい処分に踏み切ったのも、大和銀問題が単なる金融犯罪や金融スキャンダルではなく、このまま放置すれば、日本の金融破たん の火の粉が早晩、米国や国際金融に降りかかるのは必至との不安感を強めたためだ。 というのは、日本はいまや世界最大の債権大国、かつ世界の国内総生産(GDP)の二割を占める経済大国であり、日本の金融システムの帰趨(きすう)いかんは国際金融や世界経済に強い波及効果を持つからである。 それではなにゆえに、大和銀問題は個別の金融不祥事ではなく、日本の金融システムの構造的欠陥を象徴的に露呈しているのか。例えば、ウォールストリート・ジャーナル紙は社説のなかで、こう指摘する(九五年十月九日)。 「大和銀行ニューヨーク支店の井口俊英トレーダーは日本の銀行システム全体が行ってきていることをやっただけで、火中の人になっている。つまり、巨額な損失を積み上げ、そしてそれらを隠蔽していることだ」 日本の金融システムは巨額な不良債権や損失を抱え込んで久しい。大蔵省発表では四十兆円の不良債権だが、欧米では八十兆円とか百兆円とされる。だが、正確な数字はだれもわからない。「巨額な不良債権や損失」について当局はすべての金融機関に情報開示を迫らず、結果として「隠蔽」させている。 ここに「日本の金融システム=井口被告」との不名誉な等式が浮上する基本背景がある。この意味で、大和銀への厳しい処分は日本の金融当局への強力なメッセージが含まれている。それは「文化の違い」を超えた、金融という本質的にボーダーレスな世界での「共通なルールや文法」について相互理解の必要性を訴えている。 今回の大和銀事件を奇貨として現行の日本の金融体制や金融行政を洗い直してみれば、日本の金融システムが「閉塞(へいそく)状況」にあるのに改めてあぜんとする。それは金融システムがいまや経済活動のインフラとして機能不全に陥っているからだ。インフラとしての金融が行き詰まれば、血液であるマネーは円滑に流れず、経済は長期的停滞に落ち込む。 九二年度、九三年度、九四年度と三年間にわたって、日本経済の実質GDP成長率はゼロ軌道にこう着し続けている。それもケインズ的財政金融政策が全開しているのにだ。不良債権の「巨大な刺(とげ)」がささっているためだ。 九五年秋の時点で、日本の金融システムはいまやだれの目にも半身不随の状態。とにかく、金融当局は「問題は先送り、責任は前送り」である。 インフラとしての金融が機能不全化している限り、経済はノーマルに動かない。一般に、不良債権さえ処理すれば、インフラとしての金融システムは復元するとされるが、それは正しくない。むろん、巨大な汚物は清掃しなくてはならないが、インフラとしての金融にはさらに大きな役割がある。 それは二十一世紀に向けての企業活動を金融面で支援していくことだ。個々の金融機関は未来に挑戦する企業のリスクを引き受けつつ、自らがリスク管理力を持たねばならない。こうした新たな金融サービスを供給する金融システムが構築されないならば、二十一世紀の日本経済の展望は開かれない。 戦後経済の復興やキャッチアップ過程では確かにこれまでの金融行政ならびに金融体制は有効性を発揮してきた。それは資金不足経済にあって、何よりも安定的な資金供給を担保することが不可欠だったからだ。 これが護送船団体制である。だが、このシステムは安定性を最優先するために、金融機関間の自由競争を制限し、「横並び主義」をまん延させる傾向を持つ。だれでも厳しい競争は回避したいからだ。 この結果、個々の金融機関は「自己責任」、すなわちリスクをかけて行動しなくなる。脱落者を出さず、金融機関を倒産させない護送船団体制はしだいに「モラルハザード(倫理の欠如)」が一般化し、リスク管理力が喪失する。リスク管理力を失った金融システムの帰結が四十兆円を超える不良債権の巨塊なのである。 そして、この巨塊の不良債権処理について大蔵省は「おおむね五年間」でメドをつけるとしている。また、「住宅金融専門会社(住専)問題への集中的取り組み」を強調する。問題は「住専問題」が最大のヤマにせよ、住専処理のみでインフラとしての金融システムは復元しない。 また「今後五年間」をかけて漸進主義的に処理を進めれば、たしかに脱落する金融機関はわずかにとどまろう。だがこの結果、担保不動産の売却が五年間にわたって続き、地価に「底入れ感」がなかなか出てこない。 地価はなお下落を続け、株価も勢いを回復しない。この結果、資産デフレがさらに続き、日本経済は長期的な低速化を余儀なくされる。 米当局の大和銀事件に対する厳しい措置は日本の金融当局に従来の、よくいえばソフトランディング手法、悪くいえば、優柔不断の、横並び主義を転換すべしとの強い「メッセジ」なのである。短期一括処理方式のハードランディング手法にいま、日本の金融当局が転換する最後のチャンスだ。この機会を逸すれば、日本の金融・経済システムは世界的な経済大競争ならびに金融大競争から漸次、脱落しかねないからだ。 大和銀事件は日本にとって有益な隠喩(いんゆ)を持つ。それは冷戦後の市場全開時代にあって、日本の金融システムを戦後五十年間の「規制原理」から「市場原理」に準拠させることの重要性を示唆している。 そこで、以下、日本の金融行政の正統性を復元させ、金融システムを再興させる、六つの緊急提言をまとめておこう。 (1)遅くとも一九九六年九月までにすべての金融機関に不良債権(破たん先、延滞先、金利減免先)の開示を義務づける。なお、上場している銀行については九六年三月までに完全開示を求める。開示不可の銀行については証券取引所が上場をとりやめる。 (2)九七年九月までに不良債権は短期一括処理方式で償却する。少なくとも九六年三月決算からは償却について個々の金融機関の自由裁量とする。 (3)完全開示および短期一括処理方式というハードランディング手法の採用によって、償却不能な金融機関が発生する。これらは「破たん金融機関」に指定し、財政資金(公的資金)を根幹とする「金融整理基金(預金保険機構の責任準備金を含む)」によって清算する。 (4)例えば、住専にかかわる多額償却によって経営基盤が弱体化する金融機関(「再建金融機関」として指定)については優先株を発行させ、これを買い取って後日償還させる「金融安定化基金」を創設する。なお、この資金は政府保証債で調達し、税金(公的資金)は用いない。 (5)九二年成立の「金融制度改革法」の施行については現行の大蔵省の恣意(しい)的漸進主義を転換し、商業銀行機能、信託銀行機能、金融債発行機能、証券機能を完全自由化する。つまり、都銀、信託、長信銀、証券会社の合従連衡の金融再編を原則解禁する。 ちなみに、「住銀・大和銀合併」は金融不安回避の「便乗再編」とせず、再編を本格化させる契機と位置づける。この点で業際垣根は完全撤廃する。これが近い将来の米国のグラス・スティーガル法撤廃に対する日本サイドの主体的対応となる。 (6)以上の金融システムの改革にあたって、公的資金の導入は不可避だが、この点について過去の瑕疵の責任問題があいまいでは国民の納得はなかなか得られまい。国民合意を取り付けるためにも、過去の五十年間の護送船団体制を転換し、大蔵省が四十兆円についての最終的責任をとるのが筋ではないか。 そのための明確なケジメとして、金融行政を銀行委員会および証券委員会として大蔵省から分離独立すべきだ。 大蔵省は予算編成庁に衣替えし、それに徹すべきであった。新しい金融行政は、従来の「業者の守護者」から「市場の守護者」に転換してのみ可能だ。この提言が実行されれば、今後二年前後で、金融システムは再興され、日本経済に活力は確実に戻ってくる。
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