文書No.
960613
日本大学教授 今福愛志
(1)日本の企業年金の危機は年金基金の財政にあるだけでなく、母体企業の財務諸表に年金債務が的確に公開されていないことにもある。 (2)日本ではこれまで、退職金や年金給付などの労働債務を母体企業の債務と明確にはとらえてこなかった。年金資産の評価よりも年金債務こそが、年金コストだけでなく将来の競争力にも大きな影響を及ぼす要因である。 (3)年金債務の超長期性にだけ注目して、その変動的な性格を見誤ると母体企業は大きなリスクを負う。年金債務の情報開示に関する国際会計基準の動向に注目すべきだ。 日本の企業年金はいま二つの危機に直面している。一つは、年金資産の含み損の発生や予定運用利回りの低下による年金基金財政そのものの危機である。もう一つは、深刻化する年金基金財政が母体企業に及ぼす影響を企業が財務諸表にきちんと情報公開していないことである。 前者の問題については、厚生年金基金の資産の時価評価が来年から導入されることによって、いや応なく顕在化するであろう。事実、九六年三月期決算において有力企業が多額の積み立て不足を補てんする処理を実施している。 後者の問題は、必ずしも企業年金の危機であるとは考えられていない。なぜ、財務諸表上に情報公開しないことが、企業年金の危機になるのだろうか。 問題を理解するために、次のように考えてみたい。仮に、年金基金の資産の含み損や予定利回りの低下が母体企業の負担すべきコストを高め、将来の業績に影響を及ぼすと予想されるにもかかわらず、その実態の情報公開を怠ったとしたら、どうなるだろうか。 それは、母体企業による毎期の年金コストの的確な把握をはばみ、将来給付しなければならない年金債務をあいまいにさせて、母体企業の財務諸表の信頼性を損なう要因になるであろう。また、母体企業が負う必要のある年金基金の財務問題のツケを将来に繰り延べ、年金基金の危機を増幅する要因になるであろう。 しかし、日本の会計制度では、年金はもちろん、退職金などの労働債務も、的確に評価して公開する責任が企業に厳格に求められてきたとは言いがたい。 退職金の会計処理では、自己都合で退職した場合の金額(期末要支給額)の四〇%を退職給与引当金とするのが一般的である。これは、こうした処理だけが税法で認められているという制度上の理由による。 だが、会社都合による退職金という視点や、企業年金制度と併用した場合を想定して退職金を総合的にとらえるという視点が必要だ。こうした視点から見た適切な退職金コストや労働債務の評価方式はこれまで、十分に論じられてこなかった。労働債務のとらえ方がお仕着せであったことが、年金債務のあり方にも受け継がれている。 債務のとらえ方を日本の企業年金制度の特殊性(特に、厚生年金基金の代行部分をめぐる最終的な給付責任問題)に求めて、母体企業が従業員との契約をどのようにとらえ情報公開すべきかという課題を先送りすることはもはや、国際的にも許されないであろう。 八〇年代、米国、英国、カナダ、ドイツの企業年金制度は一つの転換期を迎えていた。当時は、将来の公的年金制度のあり方が問題になるのに伴い、私的年金、特に企業年金制度の重要性が高まっていた。 欧米では母体企業が企業年金コストをどのように評価し、発表すべきかという会計基準問題が絶えず問われ、抜本的ともいえる改革が行われてきた。年金基金のコストや債務は母体企業の業績に密接につながる重要なコストであり、債務でもある。母体企業の年金コスト公表は投資家にとって無視できない情報だ。企業の将来の競争力を左右する重要な要因になるからだ。 母体企業の会計基準の典型が、八五年に米国の財務会計基準審議会(FASB)が発表した年金会計基準八七号である。これは、年金基金をあたかも母体企業の金融子会社であるかのように位置づける。年金資産の時価評価による運用利回りの実績を毎期、年金コストに反映させる。運用実績が高ければ、企業の年金コストを上回る「年金収益」が発生できる可能性もあると、とらえている。 特に、年金債務のとらえ方が、年金コストの算定にとっても非常に重要な要素となっている。従来のように年金債務の現在価値を年金資産の運用利回りに連動させる方式は否定された。年金債務は独立してとらえなければならない。超長期にわたる年金債務は金額も弁済の余剰金も固定的でなく変動的で、金利を含めて様々なリスクにさらされているからである。 米国の年金会計基準八七号では、基本的に政府債証券などのリスクフリーの利子率を毎期使用して、年金債務もまた「時価」で評価することが強制されている。年金債務をできるだけ保守的に評価することによって、従業員に対する契約を的確にとらえ、間接的に受給権を保護している。 この処理方式は、オーストラリアでも採用されている。国際会計基準でも、年金コストの測定と開示の会計基準に代えて、年金債務の評価を中心とする会計基準が議論になっている。 ところが、日本の年金基金会計や、母体企業の情報開示における年金債務のとらえ方は、国際的な動向から著しく立ち遅れている。 日本の年金会計基準で重要な指標のひとつは、将来の予想掛け金収入と給付総額それぞれの現在価値の差額である責任準備金である。それは、一定の掛け金収入と資金運用益を条件に、将来の年金支払いに備えて現在、保有すべき資産とも表現できる。 だが、現在母体企業が負わなければならない年金債務との視点からみれば、五・五%という現実から遊離した高い予定利率に基づく運用益を織り込んだ責任準備金は、年金債務額に比べて大幅に不足している。指標としてほとんど意味を持たないのは明らかだ。 予定利率が実態とかけ離れた場合であっても、予定利率を使用し続けていたり、退職率などの基礎率の予測と実績との差額を含めた後発債務の償却期間の許容度が大きければ、責任準備金は重要指標としての意義を失うからだ。 責任準備金と保有資産との差額を年金不足金としてとらえる評価方式に、どんな意味があるのだろうか。 年金債務の評価に関する国際的な動向は、年金基金の長期的な性格からみて実績と仮定との差額を長期的に調整すればよいというものではない。その実態を、できるだけ早く母体企業の財務諸表に公表するだけでなく、差額を業績に反映させる方向に向かっている。 当期までに、既に発生した債務を評価することが重要で、将来の基金への積み立ては債務の評価とは別問題であるとされている。 その意味で、近年、日本でも「将来法の責任準備金」に代えて、「既発生債務」(過去の加入期間に基づいて算定される据え置き年金現価に相当する額)の考え方が検討されているのは注目される。それは、年金基金を継続する前提でなく、解散を前提にして年金債務を毎期ハッキリととらえることを意味している。 ただ、この考え方は年金基金の財政の健全性の指標としてのみ提唱されており、母体企業にとって年金債務がどう関係するのか関連づけられていないのは問題だ。この評価方式は米国の八七号や国際会計基準の標準方式にもつながる方式である。母体企業で採用しなければならない方式になっているからである。 現在、SEC(米証券取引委員会)基準で財務諸表(連結)を作成している日本の企業のうち、年金債務を再評価することで、多額の年金債務が発生する企業が問題になっている。これはいまのところ、SEC基準を適用する企業だけの問題でにとどまっているが、国際会計基準の帰趨(きすう)によっては多くの企業が直面することが予想される。 すでに国際会計基準を適用しているドイツ企業でも、基準採用時に多額の債務と年金コストが計上されている。それは、ドイツ企業が年金債務の評価方式について国際会計基準で消極的に認められている日本方式から、より好ましい標準方式に変更したことと、それまでの積み立て不足の原因を厳しく見直したためだ。 いま日本企業は、年金制度に加え、国際的な年金債務の公開のあり方についても問われている。国際会計基準の採用時に予想される膨大な年金債務による財務内容悪化に対応するために、母体企業が年金債務をどのようにとらえて情報公開するのかは、会計制度だけでなく企業年金制度にとっても重要な課題である。
|