文書No.
960701b
川北 英隆 ニッセイ基礎研究所上席主任研究員
目 次 T 問題意識 U 分析の視点 V 戦後日本の社会・経済システムとその変質 1.システムを統一する仕組み 2.統一性の喪失 W 社会システムの仕組み 1.国家システム 2.企業システム 3.委託と受託 (以上、今月号) X 金融システムのデッサン 1.金融仲介機能と証券化 2.機関投資家と投資システム 3.銀行の役割と決済機能 4.新たな金融システムに何が必要か Y 結 語 (以上、来月号) T 問題意識 まず最初に、本稿の視点について少し説明しておきたい。というのも、G¨odel(ゲーデル)の不完全性定理を援用すれば、どんな現象であろうとも、主観を完全に排除して述べることができないからである。仮定もしくは視点ともいうべき信念が少なくとも1つは必要であり、本稿もその例外ではない。
しかし、それぞれの「システム」という言葉がまちまちの意味を持っているようにみえるのは、それぞれのシステムを分析し、表現できる深さ(人の能力)が異なるからである。システムの対象が、たとえばコンピュータ・システムを作り上げるのと同じ深さで分析でき、表現できるのであれば、社会システムであれ、物理的なシステムであれ、生物的なシステムであれ、すべてはコンピュータ処理用のプログラム言語に加工できる。 もちろん、すべてのシステムをプログラム言語に加工できるというのは仮定のうえでの話でしかない。とはいえ、最近ではあらゆるシステムの分野で、それぞれの専門家がシステムを簡易的に表現できる「モデル」を作り上げ、コンピュータでシミュレーションを試みている。
本稿はシステムのなかでも社会・経済システムを主な対象としたデッサンであり、とりわけ日本の経済システムをメイン・ターゲットにしている。今後の課題として、デッサンを絵に仕上げるという作業が残されているが、金融の分野について少し絵の具を使ってみた。 デッサンの流儀はJacobson(1994)を意識したものである。この流儀を一口でいえば、システムはいくつかの機能とその相互関係によって構成され、さらに外部の影響にさらされているという点に着目したものである。 この流儀に基づいて、現実のシステムを観察し、それを構成している主要な機能を抽出し、その機能の組み合わせと情報の交換を分析することによって、システムの本質をデッサンしようとした(図1参照)。デッサンの結果をどのように使うかは自由であり、創意工夫に委ねられている。2章で、デッサンの方法について、必要な範囲でもう少し述べる。 Jacobsonの方法はコンピュータ・システムへの利用を意図したものであるが、斯界に特有のものでないだろう。経済システムの一部を構成している金融システムでは、たとえば銀行業務の分析や証券化(securitization)技術において、すでに用いられていた思考方法である。会社という組織の機能をコーポレート・ガバナンス(corporategovernance)の視点で議論するときにも、同様のアプローチが試みられている。これらの点については5章で具体的に述べたい。 要するに、異なったシステムにおいて独自に発達してきた分析手法が、結局は同じようなパターンに到達している。これは偶然ではなく、興味ある事実と思える。しかし、この点は本稿の趣旨から少し外れるので、深入りをしない。
もう1つは、もしも社会の構成員の意図が現実とうまくかみ合っていないのなら、かみ合わせるためにどのような工夫が必要なのかを描きたいということであった。社会・経済システムのデッサンを、社会・経済システムの改善のために使いたかったのである。 近所のオジさんはどこまでいっても近所のオジさんでしかないが、とりあえずデッサンし、それが社会・経済システムに対する認識の一歩になればいいと思っている。
4章では、社会・経済システムの骨格としての国家システムと企業システムを概括し、委託と受託の関係がポイントであることを示す。 5章では、社会・経済システムの例として金融システムをとりあげる。金融仲介機能、機関投資家の機能、決済機能がどのようなサブ・システムによって成り立ったいるのかをみるとともに、それらの機能の変革と、将来の姿を考える。
6章はまとめである。 ポイントは3つある。1つは、「システムの外部にあって、システムの活動を制約する要素」を想定することである。この要素を、以下では「外部要素」と呼ぶことにする。次に、システムが機能によって構成されていると考えることである。もう1つは、システムを構成する機能間に階層を設けることである。システムにおける機能間の階層は、システム全体の活動の範囲(すなわち制約)と目的を反映したものとなろう。
なお、この章での以下の説明はスキップしてさしつかえない。 この方法が分析の対象とする機能とは、システムを特徴づける動作(情報収集や意思決などの行動)を把握するための道具立て(概念)である。また機能には、それに関連する副次的な動作が含まれる。 たとえば、「計画を立てる」とか「計画を実行する」とか「計画を実行した結果を評価する」とかが、機能のいくつかの例である。しかし、これだけでは機能を十分に把握できない。具体的に資産運用というシステムを考えると、「計画を立てる」には、資金量、運用期間、運用対象、目標とする収益率と許容できる損失の範囲などを決め、それに基づいて運用対象に関連するさまざまな情報を収集するというように、副次的な動作が必要となろう。 さらにいえば、これらの副次的な動作も機能として把握することが可能である。上の例で「資金量を決める」には、自己の収入と支出、現在の資産に関する情報を集め、それらを分析しなければならないだろう。
この「システムの外部にあって、そのシステムの活動に影響を与える機関」、もしくは「システムの活動を制約する要素のうちで、システムの外側の機関から与えられるもの」を、本稿では「外部要素」と呼ぶわけである。 外部要素は分析の主対象となるシステムに対して、システムの目的を含め、制約条件を与えることになる。つまり、「分析の対象となるシステムが、外部から何らの影響も受けずにまったく自由に動作する」状態はありえないと想定することになる。 たとえば、世界の経済というシステムは「地球の限りある資源」という制約を前提に活動している。その「地球の限りある資源」という制約をより明確に意識し、「地球環境の保持」を経済活動の目的の1つとすることも可能であろう。この意味で、世界の経済システムにとって、「地球の限りある資源」は外部要素である。世界の経済システムの一部を形成している(正確にはサブ・システムと表現できる)日本の経済システムにとってもまた、「地球の限りある資源」は外部要素である。 同様に、日本の社会・経済というシステムの制約の1つに「日本国憲法」がある。日本国内で「日本国憲法」にもとる経済活動は許されないし、むしろ「日本国憲法」の精神の達成を目的に社会・経済システムは具体的な活動を行っている。 しかし、「日本国憲法」という制約は絶対的なものではない。日本の社会・経済システムは「日本国憲法」の条文に則して「日本国憲法」を変えることができるのである。とはいえ、現実の「日本国憲法」は変えられたことがない。実現したことといえば、条文の解釈が社会環境に則して変質してきたことであろう。ある意味で、外部要素とシステムが双方向に情報を交換し、時間の経過にしたがって情報の内容が少しずつ変化していった結果だと考えられる。 このように、「日本国憲法」という外部要素から得られる情報は変質していくかもしれないが、短い時間で考えれば、その変質をあまり気にする必要はなかろう。この意味で、限定付きの外部要素と呼べるかもしれない。 外部要素を想定するという方法をとらずに、外部要素をシステム内部に取り込むことも可能である。しかし、外部要素をシステムの内部に取り込めば分析すべき範囲が拡大するし、さらに分析が繁雑になろう。「地球の限りある資源」や「日本国憲法」までをもシステムに取り入れて分析することを想定すれば、分析に要する作業量と、分析結果の妥当性を確認するための労力の大きさが推察できよう。逆に外部要素の存在を認めたうえで、その外部要素の役割をほぼ無条件にシステム分析に取り入れることは、システム全体の制約や目的を常に意識することにつながり、分析の有効性と現実性を増そう。
「一方的」という意味は、まず最初にシステム内部で特定の機能が制約を生み出し、その制約に基づいて、その他の機能が動作するということである。制約の生成と、その制約に基づく動作とが1セットになっている。 「一時的」という意味は、特定の機能がシステム内部で生み出す制約は、時間の経過とともに変化するという事実を反映している。上で述べた1セットの動作が終わった後、次の制約が生み出される。しかし、その新たな制約は直前に完了した1セットの動作の結果を反映したものにならざるをえないがゆえに、最初のものと異なるのが通常だからである。 以上の一連の動作を時間を長くして観察すれば、制約を生み出す機能と、その制約に基づいて動作するその他の機能とは双方向に情報を交換し、影響を及ぼしあっていることになる。その情報交換は同時でなく、逐次的である点に特徴がある。 言い換えれば、システム内部で制約を生み出す機能は、その制約に基づいて動作するその他の機能に対して、短期的に外部要素的な役割を果たすのである。しかし、この外部要素的な機能は相対的なものである。時間の経過とともに、システムに対するこの外部要素的な影響の大きさと方向は相当程度変化していかざるをえないからである。 さらに、システム内部でのこのような情報交換の関係を別の角度からみれば、機能間に上下関係が形成されているとも認識できよう。制約(もしくは制約と同等の動作)を生み出す機能が上位にあり、下位の機能は上位の機能(すなわち制約)が生み出した結果に基づいて動作するのである。そして、下位の機能が生み出した結果は上位の機能に伝えられ、次のステップにおいて上位の機能を制約する要素の1つとなる。 このようなシステム内部の上下関係は、メイン・システムとサブ・システムの関係でもある。また、サブ・システムが1つである必然性はない。通常、システムの上下関係は何層にもなっていよう。 もう1点、システム内部での情報交換という観点からみれば、システム内で形成された上下関係は、システム全体の動作に統一性を与える原動力である。会社というシステムを思い描けば、この点は明らかであろう。さらに、外部要素が強い情報を与え、システムの動作を制約しているならば、システム全体の統一性は強まろう。
なお、この章の分析は大略、図2に基づいている。
欧米と同じような経済的な「富」と、その「富」を生み出している「1セットの産業」を日本国内に保有するという目標が、行政という外部要素によって設定されたのである。また、それが戦後の産業システムに統一性をもたらしたのである。 電力や鉄道といった公益産業はもちろんのこと、重化学工業や石油精製などの基幹産業に対しても、設備計画や輸出入政策をはじめとしてさまざまな形で行政が関与した。このような状態が戦後経済のなかで長らく続き、一部の業界では現在も名残がある。周知のように、そのような名残が「規制緩和」の対象となっている。
ところで、円滑な資金供給のためには、金融制度(金融システム)を整備する必要性が高かった。金融システムは社会・経済システムのサブ・システムでもある。 具体的には、普通銀行、信託銀行、長期信用銀行、証券会社の業務分担が峻別され、規制された。戦前から業務分担が明確になっていた生命保険会社と損害保険会社とをあわせて、いわゆる金融業務の垣根が作り上げられたのである。 このような金融制度が行政主導(法律の制定と行政指導)によって作り上げられたことはいうまでもない。しかも、その後の金融システムの運営も、日本銀行(中央銀行)を頂点とする統一性の強いものにまとめ上げられていったのである。 諸外国においても中央銀行は金融システムの頂点にあり、金利や資金供給量のコントロールを行っている。しかし日本の場合、金融市場を用いずに、直接に金利規制(主に臨時金利調整法に基づく規制)と資金量調整(代表的には窓口規制による市中銀行の貸出量調整)を行った点に特徴があった。日本銀行がこのような直接手段を有していた分だけ、金融システムの統一性をより強く達成できたのである。 行政の意図を反映した金融システムは、政策金融機関として政府系金融機関(代表的には日本輸出入銀行、日本開発銀行)が設立されたことによって一段と強化された。政府系金融機関が産業や企業に「お墨付き」を与え、その「お墨付き」を信じて市中銀行が資金供給を行ったのである。さらに、この政府系金融機関は、次に述べる財政投融資システムに組み込まれていた。
このような財政投融資システムに集まった資金は長期安定という性質を有していたため、そもそもは公的なインフラストラクチャの構築に適した資金であろう。しかしながら、その資金の一部は政府系金融機関にも流れ、行政の意図にそって民間の産業活動(設備投資や輸出基盤の整備)を支えたのである。民間に資金が流れたとしても、国民経済の発展という行政の意図と民間の産業活動が合致していたことからすれば、実質的な意味で、財政投融資資金は公的なインフラストラクチャの整備に用いられたことになる。 この点を言い換えれば、、財政投融資システムは、公的金融システムやインフラストラクチャの構築によって産業システムを補完することに重点をおいていたわけでなかったことになる。むしろ、欧米経済システムと同様のシステムの構築と、それ基づく「富」の実現に向けて、民間の経済活動を誘導することに本来の目的があったと思える。
敗戦とその後のGHQの支配によって、戦前の財閥組織が解体された。しかし、旧財閥系の銀行を中心として、すぐに企業グループ(代表として公正取引委員会が調査対象としている銀行系列の6大企業集団)が再編成されていった。企業グループとは、個別の企業(企業システム)を統合するシステムとしてとらえることができよう。 その新たな企業グループ間で激しい設備投資競争が展開された。行政が重点育成に努めた「1セットの産業」を企業グループ内で保有し、経済活動規模の拡大とグループ内でのシナジー効果をめざすことによって、企業グループ全体の繁栄を図ったのである。このため、企業グループ間で激しい競争が展開され、その競争を調整するための行政の役割も必要となった。 言い換えれば、企業グループ内の結束、企業グループ間の競争、行政による統一が戦後の日本における経済システムの特徴だったことになる。また、このような企業グループ間の競争は、欧米と同じ「1セットの産業」を国内に保有して自己完結した社会・経済システムを作り上げようとした、日本の戦後政策の縮小版でもあろう。 もう1点付け加えれば、企業グループの結束に金融システムが果たした役割は小さくないだろう。金融機関が「株式持ち合い」の核として機能発揮したのは、その例である。しかし、社会・経済システムという観点からみてより重要なことは、金融機関が行政の指導のもとに活動しつつ、その行政の意図をグループ企業に伝達することによって、あたかも企業グループ全体に対する「行政機関」として機能発揮した点である。 すなわち、金融機関は行政の意思(設備投資の可否、タイミングなど)をグループ企業に伝達し、グループ内での統一性の達成をめざしたのである。この意味でも、企業グループは社会・経済システム全体の縮小版であった。さらに、金融機関は行政の意思だけでなく、自己の意思もグループ企業に伝えたのである。 企業グループにおける金融機関の指導力は、資金が貴重な資源であり、潜在的に需要過多の状態にあったという事実によって裏付けられていた。この点も、社会・経済システム全体のコントロール手段として、行政が金融システムを重視したの同じである。 金融機関は行政や自己の意思を伝達して企業行動を制約したわけであるが、それはまた、金融機関がメインバンクとして企業行動を事前にモニターするという機能の主要な部分でもあった。一方、企業が破綻した場合に金融機関が事後的に責任を負うという慣行は、金融機関の指導力をグループの内外にアピールするための手段であっただろう。
(5) 個 人 個人事業主はもちろんそうである。一方、企業の従業員も、所属している企業自身が競争にさらされているから、やはり競争しなければならなかった。企業が成長しさえすれば企業内での地位は潤沢になっただろうが、そのような理想の状態に到達するためには、企業間(大企業にあっては企業グループ間)の競争に打ち勝つことが大前提となったのである。
さらに、産業システムや金融システムは企業システムを構成要素として有しているが、大企業は企業グループを構成し、そのグループを間にはさんで産業システムや金融システムと係わってきた。産業システムや金融システムの内部では、それらの企業グループを核とする競争が展開されたのである。 このような統一と競争という状態が同時に達成されたのは、欧米という目標があったからであろう。もちろん、それ以外にも、当時から個人の知識水準が高かったとか、戦前からの産業技術の蓄積があったからというような、日本特有の要素も好ましい影響を与えたであろう。また、組織に対する帰属意識やそれに基づく勤労意欲の高さも指摘すべきであろう。 さらにいえば、戦後の社会・経済システムは戦前の延長線上にあったと考えられる。黒船による欧米列強に対する認識、富国強兵政策、そして昭和の戦時体制のすべては、日本の社会・経済システムに統一性をもたらしたが、それらに共通するキー・ワードは「欧米」だったのである。つまり、すべは鎖国によって築き上げた江戸時代の「日本的文化」を「欧米風」に作り直す過程にあり、この意味で戦後の社会・経済システムが目標としてかかげたものと大差あるまい。 しかも、戦前も財閥をはじめとする企業間の激しい競争があり、これがシステム内部の活力を維持していたのである。戦後の企業グループが財閥を核としていることは先に述べたとおりであるが、それらの企業グループが激しい競争を展開したことは、戦前の状況からして当然だったといえよう。
(7) 戦後の統一システムの成功 社会・経済システムの統一性を標榜していたソビエト連邦と、それを取り巻いていた東欧社会主義圏が崩壊したのは記憶に新しい。中国は社会主義という統一性の高いシステムのなかに競争原理を取り入れ、経済発展を達成している。 他方、戦後日本の社会・経済システムにおいて競争だけが強調され、統一性を欠いていたとした場合、限りある社会資源の有効活用が図れたかどうかは疑問である。たとえば、計画的かつ政策的な資金配分への誘導、公的インフラストラクチャの構築について、統一性が有効だった点は認めざるをえないであろう。
一方、社会・経済システム全体の目標として「欧米」に代わるものがあるかといえば、それを見いだすことも困難である。一般に「多様な価値観」が強調され、尊重されようとしている。これは、社会・経済に共通の目標(価値観)を設定することを拒否するものである。 しかし、日本の社会・経済システムそのもの(つまりは日本という国)を否定しようという動きはない。現在の社会・経済システムが生み出している「富(付加価値)」は肯定されているし、富の低下(すなわち不況)に対する拒絶反応は強い。「欧米のような」という形容詞が付いていない、「富」そのものが社会・経済システムの目標となってしまったかのようである。 一方で、規制緩和、自由、ボヘミアンというような言葉の氾濫は、富を得るための社会経済の仕組み(具体的な仕組み)は「よけいなお世話」であり、邪魔だという意識が国民に強いことを示しているようである。富と自由度の両立という、いわば金も時間も、欲しいものは何でも手に入り、一方で小うるさいものが一切ない生活を望んでいるのだろう。 社会・経済システムのこのような現状の是非を問う前に、まずその影響をみてみたい。
直接に影響を受けたのは行政であろう。戦後の社会・経済システムが「欧米」という目標をかかげ、その目標の具体化に行政が多大な役割を演じたとすれば、そのような統一目標を喪失した後の行政の役割が疑問視されるのは当然の成り行きである。 行政改革や規制緩和はそのような疑問の具体的な表現であろう。行政によって統一性を保持してきたさまざまなサブ・システムが、今後は自分の意思で活動したいと主張しているのである。行政が今後も統一性に向けた活動をするのであれば、むしろそれを「よけいなお世話」と評価し、そのような「よけいなお世話」のために税金を支払いたくないと主張しているのである。 同じことは、企業グループや企業システムでも生じている。その典型が金融機関の指導力の低下である。日本経済の水準が欧米に追いつくとともに経済成長率が低下し、資金の貴重性が低減した。その結果は、貴重な資金をとり仕切ってきた金融機関の相対的な地位を引き下げたし、資金を金融機関にとり仕切らせる理由も消滅させたのである。一口にいえば、金融自由化の流れである。 第1次石油危機以降に企業が実施した減量経営は、この金融機関の地位低下の始まりであろう。大企業が銀行借入でなくエクイティ・ファイナンスや内外の社債市場で自由に(コスト、発行規則、手続きの繁雑さという制約をあまり受けずに)資金調達できるまでに自由度を得たことは、金融機関の資金供給機能が絶対的な力(指導力)をもたなくなった象徴である。かつて企業が頼っていた金融機関の機能を、市場が代替できるようになったのである。 もちろん、旧財閥系を代表とする企業グループのなかでは、企業間の結束が保たれており、金融機関の地位は保全されているようにみえる。しかし、一般企業の格付けと比較して、金融機関のランクが低下している事実は、金融機関の力が企業グループ内でも潜在的に低下していることを示してはいないだろうか。 以上のような金融機関の地位の低下は、金融自由化の過程において金融機関と行政の関係が変化してきたことに典型的である。むしろ、企業グループ内における金融機関の地位の変化よりも、行政との関係の変化の方がより本質的であろう。 金融自由化とは、行政の意思に制約されずに金融機関が自由に行動できることを保証するものである。見方を変えれば、戦後の社会・経済システムに特徴的だった、金融機関を仲介した情報の流れが放棄されたことになる。すなわち、行政から金融機関へと情報を伝達し、片方で金融機関と企業の力関係も利用しながら、金融政策と産業政策の統一性を確保してきた情報の流れが必然ではなくなったのである。 ところで、戦後の社会・経済システムに特徴的だったこの情報の流れは、比喩的にいえば金融機関が行政の機能を代行していたことになる。一方で、行政の機能を代行する手数料として、金融機関の業務に一定の収益が保証されていたのである。しかし、金融自由化によって、行政機能の代行という役割が免除されたことは、そのような収益の保証もなくなったことを意味する。預金金利や手数料率の自由化は、収益の保証がなくなったことの具体的表現である。 企業システムの視点から金融自由化後の状態を考えれば、次のようになろう。すなわち、企業(とくに大企業)は金融機関を仲介して資金を調達しなければならないという束縛(制約)から解放され、行政の「よけいなお世話」を受けることもなく、自由に行動できるようになった。 しかも、「株式持ち合い」という上場会社の相互扶助の仕組みがほぼ従来のままで存続しているから、株主の目や声を意識する必要性にも乏しい。従業員も労働組合も、終身雇用や年功序列賃金制度の枠組みのなかで、経営との一体性が強いため、よほどのことがないかぎり経営陣の行動に異議をさしはさまないであろう。株主や従業員にとって、とりあえず我慢した方が金銭的に得だ(少なくとも過去には得だった)からである。 いずれの観点からみても、経営陣は思うがままに企業を操縦できるようになった。このことは経営陣にとって喜ばしいようにみえる。しかし、本当にそうであろうか。 少なくとも、ミクロ(経営陣)とマクロ(社会・経済システム)とでは認識の相違がありそうである。 たとえば、企業システムは社会・経済システムのサブ・システムであるにもかかわらず、一般に考えられている社会・経済システムの存在意義(たとえば「富」を得るためにシステムが存在するというような意義)と経営陣の意識との乖離を予防するための仕組みが確保されていない。このため、社会・経済システムの不利益になるように企業が操縦されてしまう可能性を否定できないのである。 メイン・システムとサブ・システムの乖離を修正する仕組みとして市場原理に期待をかけたいものの、少なくとも「株式持ち合い」を前提とした株式市場と、従業員と経営が一体となった(そして労働力の流動性を保証する企業外の仕組みに乏しい)労働市場においては、期待どおりに市場原理は機能しない。株主に対する不利益も、従業員に対する不利益も、その程度が著しく大きくならないかぎり、経営陣の方針を修正させる力として働かないのである。 戦後の経済発展の過程で、個人の多くは都市に移動し、サラリーマン化した。現在も、多くの個人はサラリーマンとして企業システムのなかに組み込まれている。しかし、企業システムが社会・経済システムと乖離する可能性を秘めているのなら、企業内での個人のサラリーマンとしての行動も、「社会・経済システムの論理と目的に照らして」正当に評価される保証がないことになる。企業固有の論理に基づいて評価されてしまうかもしれないのである。その結果、ここでもマクロとミクロの乖離が生じうる。 その他、統一性の喪失は政治システムにも影響を与えている。榊原(1993)によれば、本来は国(国民)を意識すべき政治が、選挙区という地域地盤を意識したものに変質しているという。行政による統一性が存在しなければ、そのような地域を重視した「国政」が本来の国政の役割を発揮せず、地域間で齟齬を生み出しかねない。たとえば、一般会計制度や財政投融資システムを通じた所得の再分配過程において、国としての最適な配分が阻害されてしまう可能性を否定できない。 また、教育も例外ではあるまい。論理や思考ではなく知識に重点をおいた現在の教育システムにおいては、社会・経済システムのなかでの個人や組織の位置づけを意識させるという、教育の重要な役割が放棄されかねない。しかしその危険性も、社会・経済システムの統一性が喪失された現在、あまり大きな損失として意識されないであろう。知識が「富」に直結しさえすればそれで十分なのである。 もちろん、このような教育システムには、企業経営と同様、マクロとミクロにおける認識の乖離という危険性も潜んでいる。マクロの視点から「富」という尺度で図ってみると、合理的な教育制度でなかった、という結果になりかねないのである。
「富」を生み出すことが社会・経済システムの意義であるという点を是認したとしよう。それでも、「富」を生み出す仕組みについて社会的に何らの統一を図らずに、サブ・システムの自由意思に委ねてしまっていいのだろうか、という疑問が残る。 社会・経済システムのサブ・システム(ミクロ)が、各々にとって最適な行動を選択したとしても、それが社会・経済システム全体(マクロ)から評価してみた場合、必ずしも最適な行動になっていないというのが通常である。 一般の関心の外に放り投げられてしまった社会・経済システムの仕組みが、たまたまうまく機能してマクロとミクロを一致させることもありえよう。しかし、そのようには万時、好都合にできていないという事実はいくらでも指摘できる。先に述べた「株式持ち合い」、「労働市場」などはその例である。もう少しだけ、例示を加えておきたい。 まず、財政投融資システムについてである。このシステムは経済のインフラストラクチャの整備と国民の生活レベルの向上をめざすための仕組みとして、政策的に導入され、機能してきた。しかし、国民所得の10%に達するまでに拡大を続けているシステムが、マクロの「富」という観点から合理性を保っているのかどうかである(図3)。財政投融資システムが政策的であるだけに、そのような政策資金を無駄にしないための、社会・経済的な仕組みが必要なのである。 たとえば、財政投融資資金の供給は政策に基づいたものであるので、その供給のための条件は市場資金よりも使いやすく(低利もしくは安定的に)決められる。一方、調達のための条件は市場に準拠しなければならない(さもなければ資金が集まらないか、強制的に集めた場合には不満が鬱積する)。この調達・供給条件のギャップを埋めてきたのが社会・経済システムの統一的な仕組み(それによる社会・経済的な効果)であった。しかし、少なくとも従来のような統一性が国民によって認知されなくなった現在、新たな仕組みを導入しなければ財政投融資システムに対する十分な理解は得られないだろう。財政投融資システムというミクロでの動作が、社会・経済システムというマクロからみて不適切な動作になりかねないのである。 次に民間の金融システムである。民間金融機関も企業であることにかわりない。とすれば、先に述べたような経営陣の思うがままの経営によって、マクロとミクロの乖離が生じうることになる。バブル崩壊以降の金融機関をめぐる事件や批判は、この乖離の実例であろう。 金融システムにおけるマクロとミクロの乖離を防ぐためには、市場原理の機能する仕組みを作ることがまず必要である。しかし、「株式持ち合い」や「労働市場」の現状からして今すぐに市場原理に期待するのは困難である。また、金融システムの公的な性質が高いとの認識が一般化していることからすれば、市場原理以外の新たな仕組みも要請されている。 とはいえ、金融システムに市場原理以外の新たな仕組みを導入するには考慮すべき点が多い。まず、金融システムの公的性質とは何かである。たとえば、銀行の機能として定義されている預金・貸出と決済のなかで、どのような(もしくはすべての)機能が公的なものであるのかという問題である。 また、「公的」とは何を意味しているのだろうか。銀行法の精神である「預金者保護」や、証券取引法の精神である「投資家保護」と、「公的」とはどこまで同じで、どこが違うのだろうか。少なくとも、金融技術や情報処理技術の発展は、戦後に作られた金融システムの再考を促している。現在の技術の発展を考慮した場合、従来の金融システムが将来にわたり最適である保証はまったくないからである。 もう1つは規制のあり方である。これは金融システムだけの問題ではない。現在の法規制体系は戦後の経済発展とともに整備されてきた。「欧米」という社会・経済システムの目標に向かって行政が最適な経路を設定し、社会・経済システムのサブ・システムがその最適な経路を確実に選択するように、現在の法規制体系(正確には金融自由化や規制緩和の影響を受ける直前の法規制体系)は設定されてきた。いわゆる事前規制の体系である。 しかし、事前規制の体系が許容されるのは、社会・経済システムの目標が抽象レベルでも、具体レベルでも明確な場合であろう。すなわち、抽象的に「富」という目標があり、その「富」を達成するには「欧米」のような経済活動を行うことがもっとも確実な方法だとわかっていたから、後はそのための近道をうまく選択できるマニュアルを、法規制という形を用いて具体的に描けばよかったのである。 現在、「富」という目標はあるとしても、その具体的かつ統一的な目標は存在しない。このような状態では具体的なマニュアルは描けないのである。「何のための事前規制か」と問われても、ミクロのレベルでは答えらても、マクロのレベルで統一性と説得性のある答えは出せないのである。ここでもマクロとミクロの乖離が生じている。 むしろ、統一的かつ具体的な目標を事前に示すことは、社会・経済の活力をそいでしまう危険性さえある。社会全体の創造性の否定でもある。 以上をまとめておく。まず最初に、戦後の社会・経済システムにおいて経済活動の効率性を保証してきた仕組みを示した。しかし、戦後の経済・社会システムの仕組みとそれが生み出してきた結果は、将来の非効率性をもたらそうとしているようである。少なくとも従来のように効率的ではないだろう。 言い換えれば、社会・経済システムに新たな仕組みを導入しないかぎり、マクロとミクロの乖離がいたるところで発生し、社会・経済システム全体の混乱をもたらす危険性がある。 とはいえ、新たな仕組みさえ導入すればそれで十分だというものでもない。サブ・システムがそれぞれに適した新たな仕組みを自由に捜し出し、導入した場合、社会・経済システム全体として望ましい状態ができあがる保証はない。 だからといって、行政がすべてをマニュアル化して事前規制を導入する方法も、現在の日本の社会・経済システムでは賛同を得られそうにないし、逆効果だろう。これは先に指摘したとおりである。 望ましいのは、社会・経済システムの抽象的な目標(「富」でもいい)の効率的な達成を保証するような、新たな「仕組みに関するマニュアル」を作ることである。その「仕組みに関するマニュアル」の主要な部分は抽象的なものになろうが、法規制の形で十分表現できるだろう。つまり、抽象的なマニュアルとしての法規制は、新たな仕組みを統一するための仕組みでもある。この意味で統一的な概念を導入することにつながる。 その統一的な法規制の基本は、社会・経済システムのための新たな仕組みであり、それが機能したことにともなう主要な結果を事後的に評価するものであろう。また、その法規制は具体的なマニュアルを基本的な意図としていないことから、事前の判断や事後評価の多くの部分については、法規制以外の仕組み(代表的には市場原理)に委ねられるであろう。 ところで、このような抽象的なマニュアルとしての法規制を作るために、まず社会・経済システムそのものを抽象的なレベルから分析する必要がある。次に、このような分析による社会・経済システムのデッサンを示しておきたい。
国家システムに対する外部要素として、この他に国際機関、海外諸国、地球環境なども重要であるが、本稿では考慮しない。 さて、「日本国憲法」によれば、国家システムにおける主権は国民にある。国民の意思が国家システムの活動を規定しているのである。国民の主権が具体的なシステムのなかでどのように表現されるのかはともかくとして、すべての国民(個人)に平等に主権があるという国家システムは世界の主流となっている。現在の社会・経済システムを考えるうえで、それに異議をさしはさむ余地はない。 国民の主権は、日本という国家システムのなかでは、選挙権および被選挙権と、選挙結果に基づいて選出される議員、議員で構成される議会(国家の場合は国会)によって表現されていく。 国会(立法)は法律と国家予算を審議し、成立させるためのシステムである。法律が具体的な制度(すなわち具体的な社会・経済システム)の枠組みを形成する。予算は、法律という枠組みを前提としつつ、行政に具体的な行動に対する枠組みと制約を与えるための意思決定行為である。 行政は社会・経済システムを公的な(国家の)立場から稼働させるためのシステムである。行政の行動の枠組みが法律および予算という形で立法によって決定されることは、上で述べた。さらに、予算執行の結果(決算)も立法に提出される。行政は立法によってモニターされるのである。 立法が国民の主権を反映するような仕組みを有しているため、行政は国民によって間接的にモニターされていることになる。立法自身は選挙によって国民のモニターを直接受けるようになっている。 司法は、社会・経済システムの枠組みとしての法律の機能維持に関するシステムである。しかし、司法がそのような役割を能動的に果たすわけでない。社会・経済システムのなかで発生したイベントについて、国民(もしくは特定のシステム)が社会・経済システムの枠組みのうえで問題があると、司法システムに警告を発することによって、司法のモニターが開始される。司法に対しても国民は、限定的だがモニター権(最高裁判事の国民審査)を有している。 一方、国家システムを稼働させるには費用が必要になる。立法、行政、司法の各システムで直接発生する費用だけでなく、社会・経済システムの枠組み(公的インフラストラクチャ、社会保障など)を維持するための費用も必要である。これらの費用は主権を得ていることの対価として国民が負担すべきものであり、負担の方式は課税や保険料といった形態をとっている。また、負担のあり方は立法によって決定される。この意味で国民が間接的に費用の意思決定をしているのである。 国家システムは地方自治システムというサブ・システムを有している。地方自治システムは国家システムのミニチュア版であり、国民(正確には地域住民)が直接、間接のモニター権を有するとともに、地方自治システムを維持するための費用負担も行う。 また、地方自治システムは国家システムのサブ・システムであるため、国家システムの影響を受ける。地方自治システムに対して、国家システムは外部要素として関係することになる。 ところで、国家システムが地方自治システムに与える影響は、意思決定とシステム維持費用の両面である。地方住民と国家システムのどちらの影響が重要か、整合性が保たれているのかどうか、これらの点については具体的なシステムを分析する必要があるものの、本稿の対象ではない。 以上のように、国家システムは立法、行政、司法の3つの機能(3権)に分かれ、互いに情報を交換している。しかも、立法をつかさどる国会という仕組みをもつことによって、国家システムの枠組みに国民の意思とモニターがより強く反映されるようになっている。むしろ、国民のモニターのあり方が、国家システムをうまく機能発揮させられるかどうかを左右するのである。
しかし、これだけで株式会社という企業システムが構成されているわけでない。 株式会社に対する資金供給のうち、資本金などの資本勘定として基本的な部分を提供するのが株主である。資本勘定以外に、「一時的」に資金を提供する方法として金融機関の貸出、投資家の社債などがある。 株主の資金の最大の特徴は企業が存続するかぎり提供され続けることであり、残余財産に対する分配請求権を有していることである。このような資金はその他の資金を調達するに際して一種の担保として働き、リスクが大きい。このため、株主は企業の所有者とみなされている。株主は、貸出や社債での資金提供者以上に、企業システムの効率性や仕組みに注目することになろう。 ところで、金融機関や投資家が資金を提供するのは、対価を期待しているからである。その対価は利息などによって直接支払われることもあろうし、それ以外の方法で間接的に支払われてもいい。しかし、何らかの方法で支払われる必要がある。さもなければ、金融機関の貸出や社債の場合には資金の回収が殺到するだろうし、株式の場合には新たな調達が著しく困難になろう。 資金以外に、株式会社という企業システムを経営し、運営する仕組み(組織と人)も必要である。経営者と従業員である。経営者は株主総会で株主の承認を得て選ばれ、経営がうまくいけば対価を受け取れる。一方、従業員は雇用契約に基づいて労働力を提供する。従業員が雇用契約を締結するのは、対価としての賃金を得るためである。 日本の場合、大企業での終身雇用制度という慣行(らしきもの)に象徴されるように、雇用契約は長期であることが多い。現実にも、労働に流動性を付与するための市場は十分に整備されておらず、終身雇用制度と表裏一体の関係にある。年功序列賃金制度や退職金・年金制度もまた、長期の雇用契約を前提とした制度である。さらにいえば、日本企業の場合、長期に在職した従業員のなかから経営者が選ばれる場合が多い。これもまた、年功序列制度の延長であろう。いずれにしても、同じ企業で長期間働かないかぎり、労働に見合った対価を得るのが困難な仕組みになっている。 ところで、株式会社という仕組みは、資金提供者と経営者とが同一であることを要請しない。いわゆる所有と経営の分離である。株主は企業経営のための資金を企業経営のプロであると見込んだ者、すなわち経営者に委託する。経営者はその株主の資金を利用し、それに自己の専門的な知識とノウハウを付加して企業を経営し、経営の結果(利益)を株主に還元するのである。 企業の所有者である株主は株式を市場で売却することによって資金を回収できる。一方、企業という組織にとって、株式によって調達した資金は組織が存続するかぎり利用でき、株主が誰であるのかに依存しないのである。 しかし、所有と経営の分離という分散型の組織では、本来、株主が企業システムに期待している機能を、いつでもうまく達成できるであろうか。所有と経営が完全に分離してしまい、経営者が自己の「富」目的に行動する場合には、株主の利益はないがしろにされかねない。そこで、株主にとって不本意な結果が生じないために、仕組みが必要となる。いわゆる株主によるコーポレート・ガバナンスである。 コーポレート・ガバナンスは経営者に対するモニターの問題でもある。モニターの観点は、経営者が「株主の利益」を考慮した経営を行い、さらにそれにふさわしい結果を残しているのかどうかである。ここでの「株主の利益」とは、何も株式から直接得られる利益に限定されない。この意味で、「株式持ち合い」も成立しうる。 株主の利益が達成されているかどうかの判断を株主自身がタイムリーかつ正確に行えるためには、制度として情報の開示が必要となる。では、株主が開示資料に基づいて現在の経営を不適切(ただし不正は行われていない)と判断したときに、どのような行動を選択できるのであろうか。選択肢はいくつかある。 1つは株主総会である。現在の経営者が提案する経営方針を株主総会の場でチェックし、場合によっては反対票を投じることである。しかし、大株主でもないかぎり、株主総会でのモニターの効果は限定されている。 次に、株式市場で株式を売却することである。この方法によれば、株主は投資資金を(全額ではないかもしれないものの)とりあえず回収できる。しかも、タイムリーに回収できる。また、その他の多くの株主も同様に株式を売却して投資資金の回収を図れば、株価が下落し、現在の経営者の評判が落ちるであろうし、証券市場から新たな資金を調達することが困難になる。つまり、市場原理によって経営者に対するモニターが達成できるかもしれないのである。 もう1つは、株式以外の取引関係を利用する方法である。従来、日本のメイン・バンクが行ってきたように、企業の資金調達全般を牛耳ることができていて、しかも株主であるのなら、モニターは比較的容易である。要は、メイン・バンクにかぎらず、何らかの点で企業に対して優位な立場にさえあればいい。問題は、そのような優位な立場にどのようにすればなれるかである。 結局のところ、大株主でも、特別に優位な立場にもない株主にとって、モニターへの近道は市場原理に頼ることである。もちろん、市場原理が有効に作動する保証はない。しかし、市場原理に訴えられない企業システムを想定してみると、最後の手段である株主総会を用いたモニターは、一般の株主にとっては狼少年が叫ぶだけの効果しかもたないことになろう。 日本では従業員の立場からのコーポレート・ガバナンスが重要だと主張される。日本の雇用契約が長期であり、賃金をはじめとする労働の対価が長期の雇用体系を前提にしているとすれば、これは当然の論点であろう。従業員の立場からすると、将来、労働の対価が支払われるかどうか、支払われるとしてもその水準がどの程度か、これらの大部分は今後の企業経営に依存しているからである。 では従業員の立場から、経営をモニターする方法があるのだろうか。かつての高度成長期にあっては、従業員のなかから経営者がかなりの割合で輩出されていたので、結果としてそれなりのモニターがなされていたことになる。 しかし、現状ではそのような状況は消滅しつつあり、モニターはきわめて困難な問題であろう。むしろ、消極的な対応策が議論されているにすぎない。すなわち、経営者の経営方針が極端に転換しないように、といったものである。たとえば企業買収が実行されると、従業員の観点から社会的な損失が発生するので望ましくないとされる。 しかし、従業員にとって必要な仕組みは、「企業買収がありませんように」というような消極的なものとは少し異なるだろう。 労働の対価(退職金、年金など)が長期契約に依存しているとしても、そのような将来の対価の支払いを現時点で「企業が従業員に対して負っている債務」として、会計上認識できるはずである。その債務額をきっちりと計上し、従業員に帰属するものとして開示すべきであろう。 また、積極的なモニターという観点からすれば、雇用契約が見直されてもいいだろう。極端な場合、雇用に対する本来の対価がその都度支払われるという契約もありえよう。そのような契約を補完するものとして、当然、流動性の確保と適正な労働評価のために、労働市場が整備されなければならない。 以上のような会計制度や雇用契約に対する社会的抵抗と摩擦は大きいであろうが、日本経済の成長力低下と老齢化、持株会社制度による企業組織の変革、企業の海外移転などとつきあわせて、一考してみる必要があるだろう。
国家システムでは、国民は社会・経済システムに関する意思決定をみずからで行わずに、立法に委ねている。その代わりに、主に選挙という仕組みを用いて国家システムをモニターしている。意思決定の執行機関である行政に対しては、立法を用いて間接的にモニターしている。一方、国民は税金という対価を国家システムに支払っている。 企業システムでは、企業の所有者である株主が、企業経営を経営者に委ねている。その代わりに、市場システムや株主総会という仕組みを用いて経営者をモニターしている。もちろん経営者は、経営を遂行する過程で、たとえば従業員を株主に代わってモニターすることになる。一方、株主は報酬という対価を経営に支払っている。 なお、日本の企業システムを考える場合には、従業員の役割を重視しなければならないが、かつての企業システムを前提とすれば、経営者と従業員を一体のものとして把握することが可能であっただろう。現在、このような一体性は崩れつつあると考えられるが、従業員の問題にはこれ以上深入りしない。 このように、国家システムや企業システムにあっては、本来の意思決定者が具体的な意思決定を行わず、その機能を第三者に委託しているのである。第三者に委託する理由はいくつか考えられようが、重要なのは、専門家に任せた方がうまく機能するということであろう。国家(立法)や株式会社(経営者)は受託者ということになる(図5)。 しかし、それだけでは、受託した第三者が委託者の立場から意思決定し、機能を発揮する保証がない。そこで、モニターという仕組みと、モニターのための情報開示の仕組みが設けられることになる。さらに、モニターの結果に基づいて委託者が行動し、意思表示できる機会や場(たとえば選挙システムや市場システム)が求められる。受託者を事後的に評価する仕組みである。 また、モニターに基づいて、引き続き同じ受託者を選ぶかどうかを意思決定するための基準が明確になっていなければならない。受託者としても、そのような基準が明確であれば、委託者のニーズを把握しやすくなり、そのニーズにあった行動を選択しやすくなる。 このように、社会・経済システムがシステムとして成立し、合目的的に機能するためには、委託と受託、モニター、情報開示、モニターのための基準、および受託者が行動・意思表示する機会と場といった仕組みが、1セットで整備されていなければならない。
浜田道代(1994)「国家・企業・家族」加藤雅信 編『現在日本の法と政治』三省堂
宮田満編著(1979)『日本の未来像』東洋経済新 報社
金融機関のなかで典型的な銀行を考えると、次のように行動している(図6)。 銀行は預金によって資金を調達している。預金という資金の性質は、普通預金に象徴されるように流動性が重んじられ、一般には短期資金である。また、小口であることが多い。さらに、銀行の信用力は一般に高いこともあり、低利資金(預金)として調達できる。 一方、貸出資金は、設備投資資金に代表されるように、長期間にわたって安定的に利用できることが資金需要者のニーズであり、一般には預金よりも長期という性質をもっている。また、大口であることが多い。 つまり、銀行は短期かつ小口の資金を調達して、それよりも長期かつ大口の資金を供給している。さらに、資金需要者の信用力に応じて金利水準を調整する。 以上の機能は一般に指摘されるように、資金需要者の発見機能、信用リスクの変換機能(もしくは信用リスクの負担機能)、資金の期間および量の変換機能、というサブ機能に整理できる。また当然、資金供給者をみつけなければならないが、これは金融商品(預金)の販売機能である。銀行が果たしてきた金融仲介機能の特徴は、以上の機能を一括して担う点にある。 ところで、これらのサブ機能は情報生産能力に基づいており、銀行のノウハウである。また、広義の「資金の投資(資金供給)に関するノウハウ」である。このノウハウが銀行の付加価値の源泉になっている。 実際には、銀行の収益は2つの金利差から得られる。短期・小口資金と長期・大口資金の金利差と、銀行と資金需要者の信用リスクの差に基づく金利差である。
一方、このような収益構造は次のようなリスクをともなっている。 また、信用リスクも問題となる。資金需要者が倒産すれば貸し出した資金は回収できない。資金需要者に対する審査やモニターによっても、信用リスクが完全に回避できるわけでない。 ところで、金融市場が自由化され金利規制と参入規制が少なくなるにつれて、金融機関の経営を安定させるに足りる収益が常時得られるという保証がなくなった。このような新たな金融環境は同時に、銀行をはじめとする金融機関の信用力が絶対優位でなくなったことも意味する。 たとえば、資金供給者は銀行の信用リスクと社債発行企業の信用リスクを比較して、金利との関係でより有利と考えられる方に投資するようになろう。この結果、信用リスクの差に基づいて得られてきた銀行の収益が不安定になるとともに、銀行と一般の事業会社との資金調達市場での競合も強まろう。社債発行市場が自由化し、96年からどのような企業でも社債を発行できるようになったことは、銀行と一般企業の資金調達市場での競合が現実のものになったことを意味する。
金融機関にとっての証券化は、上記(1)で述べた金融環境の変化に対応する有力な手段である。次に述べるように、証券化が従来の金融仲介機能の各サブ機能を独立させる仕組みであることから、証券化によって独立した後のいくつかの機能のなかから得意なものだけを選択して機能発揮すれば、金融機関の収益確保に役立つかもしれないからである。 証券化とは、既存の金銭債権を特別の器(たとえば信託勘定や、特別に設立された会社や組織など)に売却し、その売却された金銭債権に基づいて証券(証券化商品)を発行し、流通させるための仕組みである(図7)。 証券化には、まず、通常の金融仲介機能的な、金銭債権を作り出す機能が発揮されなければならない。いわゆるオリジネート機能であり、その機能を担うオリジネーターの存在である。 オリジネート機能が通常の金融仲介機能と異なるのは、その後の証券化によって金銭債権が売却されるため、リスクにさらされる期間が短くなる点である。また、リスクの短期化によってリスク軽減効果が相当程度もたらされるのであれば、金融機関以外の機関にとってもオリジネート機能を発揮することが可能になろう。 次に必要なのは、売却された金銭債権を受けるための器の機能である。この機能を発揮するために、信託勘定が設定されたり、新たに会社(特別目的会社)などの組織が作り出されたりする。 しかし、これらの器は法律上の概念であったり、ペーパー上のものだけであったりするだけで、購入した債権を実務的に管理するわけでない。債権の管理機能(カストディー機能)は、信託や銀行などの専門機関が行うことになる。 また、それらの器に売却された金銭債権に基づいて、証券化商品を設計する機能が必要となる。金銭債権から発生するキュッシュフローと、証券化商品(多くは複数の証券の組み合わせ)に支払われるキュッシュフローを一致させるための仕組みを作り出す機能である。 同時に、証券化商品に信用力を付与するための仕組みが必要になる。証券化商品の設計を工夫することによって信用力の付与の問題がクリアされることもあるが、場合によってはどこかの機関に信用力の補完(信用保証)機能を求めなければならない。 このようにして証券化商品が設計された後、アンダーライターの引受機能と証券会社の販売機能を用いて証券化商品は証券市場に売り出され、投資家が投資することになる。 以上は証券化商品の発行時点に必要な機能であるが、その後もいくつかの機能が発揮されなければならない。 1つは、証券化商品の元利払いに関する機能である。証券化商品のキュッシュフローは金銭債権のキュッシュフローに基づいているから、金銭債権の元利金を取り立て、それを証券化のために設置された器に移し、証券化商品の投資家に支払わなければならない。このうち、元利金の取り立て機能を担う機関は、一般にサービサーと呼ばれる。実務的な便宜性の観点から、サービサーの機能はオリジネーターの担当となる場合が多い。 もう1つは、証券化商品を証券市場で流通させる機能である。これは通常の証券会社の機能である。 以上が証券化のための機能であるが、これですべてではない。もっとも肝心な機能が忘れられている。それは、これらのさまざまな機能とその提供者を具体的に捜しだし、組み合わせ、一方で投資家のニーズを探り出して、そのニーズに合致した証券化商品を作り出すという、いわば企画機能である。企画機能のような全体を統括する機能がなければ、証券化は絵に描いた餅に終わろう。 証券化のための機能を金融仲介機能と比較する形で検討すると、次のことがいえよう。 資金需要者の発見機能は、従来どおり金融機関が果たしうることになるが、金融機関以外の機関(たとえばリース会社やクレジット会社)との競合が生じうる。 次に、信用リスクの変換機能と、資金の期間および量の変換機能の担い手は脇役に退き、基本的に投資家の負担に委ねられる。ただし、金銭債権が売却されるまでの間は、オリジネーターが2つの機能を担うことになるし、信用保証を付ければ、信用保証した機関がその保証契約に即した形で信用リスクの変換機能を担う。また、証券市場はこれらの機能を投資家間で分担するための場を提供することになる。 なお、金融仲介機能によって資金供給された後の元利金取り立てなど保全のための機能は、証券化の後はサービサーが担う。 それ以外の機能、すなわち証券化のための器の機能、証券化商品の設計機能、引受と販売機能、流通機能は証券化のために新たに必要となった機能である。 最後に、証券化のための企画機能についてである。これと同様の機能は、金融仲介機能にもあるはずである。しかし、従来の規制金融システムにあっては、金融仲介機能として必要なサブ機能が一括して、当然のごとく与えられていたため、本当に必要な機能の組み合わせを考える必然性がなかったのである。「最初に制度ありき」だったため、企画機能が埋もれてしまっていたといえよう。同時に、預金金利や商品性なども規制されていたため、資金供給者(投資家)のニーズをさぐる必然性もなかったのである。この点は銀行の決済機能のところで再考する。
繰り返せば、投資ノウハウという広義の資金供給機能を保有し、その機能を一般の投資家に提供する役割を果たしているのである。この点は、X−1で述べたように銀行の金融仲介機能が広義の投資(資金供給)に関するノウハウとその提供であるという、一般の認識と基本的に共通である。 以上からすれば、資金供給を仲介するという観点から銀行が金融仲介機関として位置づけられるのなら、機関投資家もまた金融仲介機関として位置づけられることになる。証券化が一般化するにつれて、銀行が自己の資金供給を証券化することによってリスクの変換機能を縮小し、資金需要者の発見機能に特化していけば、ますます銀行と機関投資家の差異は小さくなろう。
このような関係をいい換えると、機関投資家に機能の提供を委託する投資家がいて、機関投資家はその委託者から機能の提供を受託する立場におかれることになる。また、市場は機関投資家が本領を発揮するための場所と環境を提供するのである。 見方を変えれば、委託者も市場も機関投資家の行動を制約する機能を果たしており、機関投資家よりも上位の意思決定機能もしくは環境提供機能を担っているといえよう。
以上が機関投資家に関係する原始的な経済主体である。 実際には、機関投資家の機能により多くの関係者が係わるのが一般的であろう。代表的には、本来の投資家が直接に機関投資家と契約して投資機能の提供を求めるのではなく、本来の投資家から権限を委任された機関(者)が機関投資家と契約する場合が多い。 このような機関投資家を取り巻く関係者について、機関投資家としての役割発揮が大いに期待されている年金と投資信託を例に、もう少し考えたい。
@ 年金に関する機能(図9) 企業内福祉の一環である年金の場合、本来の投資家はそのような福祉を実施したいと考えている企業組織である。この本来の投資家が拠出した資金を用いて投資活動を行うのが、信託、生命保険会社、投資顧問会社などの機関投資家である。 個人年金の場合、本来の投資家は個人である。個人年金ではシステムが単純であり、本稿での考察の対象としない。 さて、公的年金や企業年金では、本来の投資家以外の機関(者)が機関投資家と直接契約する場合が多い。国であったり、企業の福祉関係部門や企業から独立した年金運営組織(年金基金)が直接契約する。これらの機関投資家と直接に接触する機関もまた、本来の投資家に一種のノウハウを提供していると考えられる。以下では、このような機関を制度運営者と呼ぶ。 制度運営者の機能は、1つには、本来の投資家から年金制度に必要な資金を集め、それを将来の年金給付のために投資することであるが、その投資にあたって機関投資家の機能を利用するのである。また、年金資金の管理や年金給付事務なども行う。これらの事務もまた、外部の専門機関に委託できよう。 しかし、制度運営者の機能はこれにとどまらない。より本質的な機能は、年金制度を発足させるに際して、市場環境という制約のもとで、どのような制度が本来の投資家のニーズと合致しているのかを調査し、判断することである。この機能があってはじめて、機関投資家から適切な投資機能を引き出すことができよう。 この制度運営者の本来の機能のうち、判断に係わる部分は自分で行わなければならないが、調査機能は外部の専門機関に委ねることができる。どのような制度が最適かの調査であったり、集めた資金の投資を機関投資家に依頼するための調査である。 たとえば、機関投資家から機能を引き出すにあたって、候補となる機関投資家を選び出し、それらの機関投資家の投資ノウハウを事前に評価することが必要になる。同様に、特定の機関投資家に実際の投資を委託した後、その機関投資家が事前に評価したとおりの能力を発揮したかどうか、パフォーマンスを事後的に評価することも必要になってくる。このような事前、事後の評価機能も外部の専門機関が提供している。 その他、選定された機関投資家が特殊な市場に対する投資ノウハウを他の機関投資家に再委託する場合や、投資した証券のカストディ機能の利用などの問題もあるが、本質的でないので省略する。
A 投資信託に関する機能(図10) しかし、本来の投資家の資金はほとんどが小口であるため、機関投資家が運用できるように束ねる必要が生じる。これは、投資コストを節約するなどして、機関投資家の機能を効率良く利用するための工夫である。 実は、年金資金の場合も同様の問題がある。とはいえ、個人年金以外の年金では、「最初に制度ありき」という状態が一般的であり、その制度に基づいて資金が集められる。さらに、年金資金は本来の投資家の意思にかかわらず、半ば強制的に集められる場合が多い。公的年金はその典型である。このため、資金をとりまとめるための工夫が背後に隠れてしまっている。 投資信託の場合、資金をとりまとめる工夫が「投資信託」という商品である。この商品を具体的に工夫し、設計するためには、本来の投資家のニーズを特定し、市場環境という制約のもとで、そのニーズを満たす契約内容を作らなければならない。さらに、そのニーズに最適な機能を提供できる機関投資家をみつけだし、投資の実行を委託しなければならないし、機関投資家の事後的な評価も必要になる。 以上は、投資信託という商品の企画機能と表現することができよう。この機能は年金の場合の制度運営者の機能に相当する。以下では、投資信託の企画機能を担う機関も、年金と同様に制度運営者と呼ぶ。 また、投資信託という商品に対して資金を拠出する本来の投資家を募らなければならない。投資信託の販売である。この販売という機能もまた、年金の場合には背後に隠れがちである。 その他、資金に関する事務、証券類のカストディなどは年金の場合と基本的な差異はない。
機関投資家の本来の機能は、投資に関する機能を、本来の投資家のために提供することであると指摘した。また、このような機能の提供の仕方をいい換えれば、受託者としての役割であることも指摘した。一方、本来の投資家は、機関投資家に投資機能の提供を依頼するという、委託者の立場にあることになる。 しかし、受託者の立場にあるのは機関投資家のみでない。本来の投資家以外の、年金や投資信託に関与するすべての機関が受託者の役割を担っている。当然、制度運営者も受託者に含まれる。これは、アメリカの年金に関して、エリサ法が年金資金運用に係わるすべての機関(者)を受託者(fiduciary)とみなし、規制対象としているのと同じである。 ここでは、委託者と受託者の関係を一般化することによって、機関投資家などの受託者の行動はどうあるべきなのか、一方、委託者は何に注目すべきなのかを明らかにしたい。 特定の(年金や投資信託などの)システムにおいて、すべての受託者は、委託者のために機能の提供を行う。システムにおいてある受託者が選ばれるのは、専門家としてノウハウがあるか、コスト削減効果があると委託者が「期待」するからである。受託者はその期待に「結果」で応える義務はない。しかし、機能を提供するプロセスは、委託者の期待に応えうるような、注意深くかつ忠実なものであるべきである。 委託者の行動も、受託者の行動も、ともに経済活動である。では、経済活動は自由に行えるのであろうか。答えはもちろん否である。法律という規制がある。また、経済合理性(たとえばリスク当たりのリターンの最大化)にかなっていない行動はいずれ破綻するであろうから、経済合理性も行動の制約になるだろう。 資金の投資に関していえば、現時点以降に発生するキャッシュフローが問題になる。キャッシュフローの発生時期、額およびその確かさ(もしくはそれらの変動許容範囲)が、少なくとも暗黙のうちに意識されていよう。そうでなければ、合理的に行動していないことになり、現実においても最適な行動を選択できないだろう。 この点をいい換えれば、投資ニーズの特定が必要だということである。すなわち、当初の資金量、リスクの許容範囲(損失限度額)、リターンの目標値、投資終了時期などの条件を特定し、それに基づいて投資行動を企画するのである。もちろん、このように特定された投資ニーズ(条件)に無理がないかどうかチェックする必要がある。とくに、そのような条件に基づいて、機関投資家が機能の提供を契約する場合、専門家としてのチェックが求められる。 一方、これらの条件設定に問題がない(合理的な)場合には、その条件を投資結果が満たしていかなければならない。また、満たせないような残念な結果になりそうな場合には、条件の変更を検討することも必要である。 もう1つ、現実問題として、金融市場も制約になる。いわゆる市場環境である。提供されている商品とその特性、市場の平均的なリスクとリターン(さらには市場のパフォーマンスに大きな影響を与える経済環境)は投資行動に少なからず影響を与えよう。 とりわけ、投資資金量が大きくなれば、リスクとリターンの目標値は市場環境に大きく左右されるようになる。投資戦略(たとえば利用する投資モデルの選定)も市場環境を考慮して決定しなければならない。また、取引に必要なコストも制約になる。 本来の投資家は、「制約条件の特定」については制度運営者に、その制約条件の中での最適な投資機能の提供については機関投資家に依存することになろう。そのような状況で、制度運営者と機関投資家はそれぞれ専門家としての立場から意見を交換し、より現実的な制約条件とそれに基づく投資行動プランを特定するのが通常であろう。 年金の場合、本来の投資家が制約条件を特定することは困難であるし、さらに年金の資金量が小口であれば最適な投資行動も難しい。投資信託では、制約条件の特定は年金の場合ほど困難でないものの、資金が小口であることによる最適な投資行動の困難さは同じである。 制度運営者の重要な役割は、制約条件を特定して投資の大枠を決め、その大枠の達成に最適な機関投資家を選定し、またその他の機能の受託者を選定し、機能の提供を委託することにある。制度運営者は機関投資家などに対して委託者としての立場に立つ。実質的には再委託者である。 この再委託にあたっては、特定した制約条件を順守すべき旨、伝達しなければならない。つまり、制約条件が年金制度や投資信託に関する「細則」となる。もちろん、機関投資家などは、その制約条件が現実的でないと判断すれば、受託するに際して制約条件の変更を交渉しなければならないし、交渉した後の制約条件が望ましくないと考えれば受託を拒否しなければならない。一方、最終的に決まった制約条件を機関投資家などが順守したかどうかを重要な判断基準として、将来、制度運営者は受託者を再選定することになる。 選定された機関投資家は受託者として、与えられた制約条件のもとで最適と考えられる投資を行わなければならない。他方、何が最適な投資行動なのか、また与えられた制約条件以外に制約はないのか、これらの点に機関投資家の裁量権がある。法律と細則を順守しつつ、裁量権の範囲内で合理的な判断と行動を行っているかぎり、その結果に対して機関投資家の責任はない。 逆にいえば、機関投資家に裁量権を与えることは、委託者側(制度運営者を含む)のリスクになる。とはいえ、一定の範囲で裁量権を与えなければ機関投資家の専門能力を活用する意味がなくなる。必要十分な制約条件を決めることができるか否かは制度運営者、もしくは制度運営者の委託を受けたコンサルタントなどの能力次第である。
制度運営者を含めた委託者側の問題は次の点にある。すなわち、機関投資家の専門能力を使う前提として、委託者のニーズに基づいて制約条件を特定すべきであるという認識に乏しいし、そのための手段が徹底していない。 もう少しいえば、本来の投資家の存在をどの程度認識しているのか、その本来の投資家が望んでいるキャッシュフローの大きさやリスクとリターンというようなニーズの特定がどの程度なされているのかという問題である。また、たとえニーズが特定されていたとしても、そのニーズを1つにまとめることは困難だと思えるのだが、実際には無理にまとめてしまう傾向がある。 投資信託の場合、本来の投資家の特定は簡単であり、また商品にもバリエーションがある。このため、ニーズの特定さえきちんと行えば、後の対応は比較的簡単である。 他方、公的年金(とりわけ基礎年金に上積みされた部分)や従業員福祉としての年金においては、本来の投資家の認識とそのニーズの特定は投資信託のようには容易にいかない。また、たとえニーズが大きく異なった場合でも、現実に商品を分けることは難しい。このような年金の性質は「最初に制度ありき」という事実から派生している。最初に決められた制度が当時の経済復興、高度成長、金融規制を反映したものであり、現在の日本の経済環境、労働市場の環境、民間金融資産の蓄積、投資理論や投資市場の発展を反映していないからである。 一方、機関投資家の問題点として指摘できるのは、たとえば投資信託や生命保険(正確には年金を含む貯蓄性の保険)の場合、制度運営者(投資信託委託会社や生命保険会社)が企画機能と投資機能の両方を担当していることである。すなわち、本来の投資家のニーズおよび制約条件の特定を行う一方で、機関投資家の機能も提供している。このような場合に問題となるのは、ニーズの特定が必要十分に行われるのかどうかである。また、制約条件にかなった投資判断に基づいて行動したのかどうか、事後に適切に評価し、本来の投資家に伝達するのかどうかである。 たとえば、機関投資家として十分な機能発揮を求めるには制約条件が緩すぎたという可能性である。いい換えれば、機関投資家としての裁量権が必要以上に高かったのではないかということである。 これは可能性だけの話ではなく、日本の戦後経済の現実でもあろう。V−1で述べたように、戦後の金融制度は、企業に資金を供給するという金融機関の役割を重視して整備、構築されたものである。「機関投資家」という受託者の役割を意識して構成されたものではなかったのである。機関投資家としての機能を必要十分に提供できるような仕組みが現時点で欠けていたとしても、何ら不思議ではないだろう。 以上から導けるのは、機関投資家を用いた投資システムが機能を発揮するには、次のような金融システムの整備が求められるということである。 1つは、システム自身の見直しである。委託、受託の関係と、委託の条件(制約)が明確になるような、そして結果の評価が明確になるようなシステムがまず求められる。さらに、そのような基本的な条件を満たしたシステムのもとで、多様なニーズを反映できるような仕組みを作ることである。投資信託制度における商品性の見直し、改正保険業法における区分経理の導入は、多様な投資ニーズに応えるという方向に沿ったものであろう(図11)。また、年金制度に関しても検討が始まろうとしている。 次に、本来の投資家の意識の切り替えも必要となろう。いわゆる自己責任原則の徹底である。もちろん、自己責任を問うには、本来の投資家を委託者として明確に認識することを大前提として、上で述べた機関投資家に関するシステムを見直すことが条件となろう。これまでのように投資家保護を一方的に強調する結果、投資家として本来備えるべき条件(投資ニーズの認識と主張、リスク意識とリスク許容度の認識など)を忘れさせてしまうような愚は避けるべきである。 もう1つは、金融機関と機関投資家の機能およびそれを支えるシステムの見直しである。そのなかで、決済機能をどう位置づけるかが最大の問題となろう。このような見直しについて一般の議論は、まだ本格化していない。
3.銀行の役割と決済機能
ここでは、銀行の決済機能を分析する前に、銀行の金融仲介機能の本質についてもう少し考えておきたい。現在、日本の銀行がどのようにして決済機能と金融仲介機能を担っているのかを明らかにすれば、それが決済機能を位置づける糸口となろう(図12)。 銀行の一般的な資金調達手段は預金であり、場合によっては債券(金融債と呼ばれている)も用いられる。これらによって調達された資金を資金需要者に貸し出すことによって、銀行は金融仲介機能を果たしている。 ところで、同じ「預金」と呼ばれる金融商品にも、性質の異なる資金が混在している。たとえば、定期預金は貯蓄性を重視した商品(貯蓄商品)であるが、当座預金は資金決済のために設定される商品である。もちろん、定期預金も解約すれば決済手段として用いることができようが、そのような用い方は定期預金を設定する本来の目的と異なっている。他方、当座預金には金利が付かない。以上は、決済性預金(代表として当座預金や普通預金)と貯蓄性預金(代表として定期預金)を区別しなければならないことを示している。 また、もう1つの資金調達手段である金融債も定期預金と同じく、貯蓄商品である。つまり、決済性預金とその他の資金調達手段を別のものとして取り扱う必要がある。 投資家(資金供給者)が定期預金や金融債という貯蓄商品を保有する動機は利殖であり、投資パフォーマンスである。この観点からすれば、これらの金融商品を契約するに際して、本来、投資家としてどのようなリスクとリターンの組み合わせが望ましいのかを銀行に主張し、その貯蓄動機にふさわしい商品内容(ポートフォリオの基本的な考え方、投資行動プランなど)を選択できてしかるべきである。 たとえば、銀行の資金調達手段ではないが、投資信託はリスクとリターンの組み合わせを選択できるという意味で、貯蓄商品の典型であろう。また金融債においても、一般事業会社が発行する社債のように、さまざまな元利払いの形態を選択できていいだろう。貸付信託や定期預金の場合も、同じように考えて何らさしつかえない。現実にも、定期預金の多様化は進みつつある。 以上のような貯蓄商品に対するニーズ(すなわち資産ポートフォリオに対するさまざまな要請)に応える近道は、投資信託のようにニーズ別に(すなわち預金、債券などの資金調達方法別に)分別管理された勘定を作ることであろう。このようにして、分別された勘定では、投資家ニーズ(その結果として投資家と契約した金融商品の特性)にできるかぎりふさわしいポートフォリオを保有することになる。 そして、投資家ニーズにふさわしいポートフォリオという条件さえ満たしていれば、貸出を組み入れようが証券を組み入れようが、その種類は問われないことになる。貸出をポートフォリオの主要な構成要素として取り入れれば、そのような金融を仲介する機関は、一般的に用いられている定義にしたがうなら「金融機関」とみなされる。一方、証券をポートフォリオの主要な構成要素として取り入れれば、「機関投資家」とみなされる。 このように、投資家(資金供給者)の視点からみた「金融機関」と「機関投資家」の差は、ポートフォリオの構成要素とそれにともなう投資のパフォーマンスだけであり、本質にかかわるものではない。なお、ポートフォリオがもたらすリスクを投資家と仲介機関のどちらが負担するのかは、(投資家の潜在的な投資ニーズがリスク負担のあり方によって変化しないと仮定すれば)いかようにでも設計できるので、これも本質的な差をもたらさない。
他方、銀行が担っている決済機能は「公共的な性格が強い」と、一般に認識されている。現在の経済が、モノと資金の交換で成り立っており、その片側を構成する資金の受け渡しが決済そのものだからである。しかも、証券取引やデリバティブ取引の拡大および経済の国際化にともなって、決済機能が混乱した場合の波及効果が急拡大していることから、決済の公共性がより強調されるのである。 見方を変えれば、現在の銀行という機関がこのように公共性の高い決済機能を担う一方で、貯蓄に対するニーズに応えるという「機関投資家」と本質的差異のない機能も同時に担うことが望ましいのかどうかという疑問が生じよう。ましてや、貯蓄ニーズが多様化し、リスクの高い商品(株式やデリバティブを組み込んだような商品)を提供することも必要になってきている状況では、このような疑問が強くなる。 日本において、一部の信用組合の経営悪化に始まり、住宅金融専門会社と金融機関の不良債権の処理にからんで、公的資金の導入問題が大きな波紋を呼んだ。公的資金の導入は金融機関(もしくは金融機関が形成しているとされる金融システム)の破綻を防ぐ目的とされた。公的資金に代わるものとして、日本式に「金融機関の互助会的組織」を活用したのも、同じ目的である。 世にいう「金融システム」が何を意味しているのか、必ずしも明らかでない。しかし、「金融システムの混乱が波及効果をもたらす」、「公的な性質が高い」という議論からすれば、決済機能が意識されているのであろう。具体的には、預金の「取り付け」によって金融システムが混乱し、日本の決済機能に対する信頼性が揺らぐことを懸念して、一連の措置が講じられようとしているのである。 しかし、少し発想を転換してみたい。銀行の主要な資金調達手段とされている預金を区別して、決済性預金とその他の預金について、勘定(より厳格には組織)を別のものとして管理すればどうであろうか。 決済性預金に対して、いわゆる金融仲介機関や機関投資家としての行動を要請しないシステムの採用である。この新しいシステムにおいて決済性預金に要請されるのは、「決済機関」としての規律と行動である。いわゆるナロー・バンキング(narrowbanking)システムの視点でもある。 もう少し具体的にいえば、決済性預金は単一の勘定(組織)として管理され、それにふさわしい資産ポートフォリオ(TB、一定以上の格付けなどの基準を満たしたコールローンやCPなど)で担保する方法である。さらに、この決済性預金の勘定を中央銀行の制度が、準備預金や貸出を用いて、規制とバックアップを行うことになる。預金に対する保険制度も決済性預金のみを対象としたものになろう。 このとき、決済性預金と区別された貯蓄性預金をみると、それに対応する資産ポートフォリオは金融仲介機能のための貸出と、機関投資家機能のための証券で構成さる。不良債権の発生はこのポートフォリオのなかだけに限定され、決済性預金とは切り離して考えられることになる。 また、マクロ経済的視点に立てば、貯蓄性預金と決済性預金の間に資金移動(振替)が生じる。このため、信用創造機能に大きな影響は生じない。経済全体として貯蓄性預金と決済性預金の勘定を分けただけだと考えてもいいだろう。 なお、どのようなポートフォリオを資産として保有するかは、貯蓄性預金の提供者のニーズに依存する。ここでも、年金や投資信託資金に対する機関投資家機能と同様、かつての規制金融制度のなかで埋もれていた企画機能が要請されるのである。 このような新しいシステムにおいて「取り付け」が発生するとすれば、それは貯蓄性預金に対するものである。決済システムへの波及は限定され、この結果、「取り付け」懸念に対する社会的な対応策は柔軟性を保ちうることになり、いくつもの選択肢(たとえば、合併、倒産など)から選べることになる。 住宅金融専門会社の不良債権に代表される「金融システム」の混乱に戻って、その要因をさぐると、1つは金融機関自身のリスク管理体制の不備を指摘せざるをえないが、もう1つは金融システム全体に対する仕組みが不十分だった点に言及せざるをえない。決済機能と金融仲介機能の峻別、金融仲介機能と機関投資家機能の同質性に対する認識、そのなかでの証券化の位置づけを含め、将来の金融システムがどうあるべきなのかについて、何らの議論も公式の場でなされていないようにみえる。 「金融システム」の混乱は、公的資金の導入の是非という皮相的かつその場かぎりの議論に終始する対象ではなく、新たな金融システムの仕組みを同時に議論するための貴重な契機なのである。さらに望ましい議論は、電子マネーという決済技術の発展も視野に入れたものだろう。
現在、考案されている電子マネーにはいくつかの種類がある。 もう1つは、インターネットのような情報システムを決済のためのシステムとして利用しようというものである。このシステムは既存の決済システムに依存しない。 決済は「何らかの取引が行われ、それの対価を支払う」という情報に基づいて機能を開始する。その支払い情報に基づいて実際に決済がなされるためには、「支払い手段」が必要であり、それが「現金」であり「決済性預金」である。しかし、「決済性預金」もつきめれば「現金」に裏付けられている。 一般に「現金」は、モノとしての価値に乏しいにもかかわらず、経済価値という情報(紙切れに印字された情報)を表現した「支払い手段」とみなされる(信用される)。その理由は、中央銀行という政府組織が最先端の印刷技術を駆使して偽造の困難な「現金」を発行していることと、国家システムへの現実的「信用」が確立されていることによる。そして、その「支払い手段」を情報交換や保管の便宜上、比較的信用力の高い銀行に決済性預金として預けているのである。 このように、「(国家システムによる)信用」と「情報」が決済システムの本質であり、銀行の存在が本質ではない。現在の銀行はたまたまその「信用」と「情報」を保管、交換するための機能の担い手としての役割を与えられているにすぎない。 とすれば、情報交換のうえで現在の銀行システムよりもすぐれていて、信用力の裏付けがある(信用力の与えられる)システムが登場すれば、決済機能について銀行システムへの依存を続ける必然性がなくなることを意味する。 インターネットなどは、いつでも、どこでも、安価にアクセスできるという意味で、情報交換にすぐれたシステムである。ただし、信用に関していえば、情報そのものに対する信用(情報の偽造、改竄、漏洩防止のための暗号および重複使用防止のための技術の確立)と、支払い手段としての価値に対する信用の、両方を確立しなければならないだろう。支払い手段としての価値に対する信用は、誰が(たとえば中央銀行が)その信用を与えるかに依存しよう。 銀行が推進している決済性預金のICカード化などによる電子マネーは、インターネットなどによる決済システムへのとりあえずの対抗策である。今後は、「信用」と「情報」をめぐる競争が決済機能の担い手をめぐって展開されることになろう。 決済機能をめぐる競争がどのような決着になるのかはともかく、決済機能が銀行システムに専属のものであるという認識が薄らごうとしていることは確かである。金融自由化が現在の銀行に普通の企業としての一面を与え、同時に絶対的な信用力を奪ったことも、決済機能と現在の銀行の結び付きを緩めている。 今後は、銀行の決済機能と金融仲介機能が分離可能な機能であることが認識され、金融仲介機能面では機関投資家と競合しながら共存するように、決済機能面では情報システムと競合しながら共存するのかもしれない。 決済機能も金融仲介機能も、より効率的なシステムを視野に入れながら、整理を行う段階にさしかかっているように思える。整理という意味は、1つは、競争的なシステムを作るという視点である。もう1つは、決済機能にはその安定と信用を意識した統一性が、金融仲介機能には資金供給者のニーズを意識した統一性が、それぞれに必要だということである。
卑近な例を示しておこう。もしも規則がまったくなくなったとしたら、一般に必要と考えられている「公的な色彩の強い金融システムの維持」をどのように図るのであろうか。情報開示はどのようにして確保されるのであろうか。その他、さまざまな問題が生じるのは火を見るより明らかである。 規制緩和を正確に表現すれば「従来の規制が緩和、改善、廃止される」ことであり、それ以上のものでない。従来の規制が現在の社会経済環境にそぐわなくなったから、規制緩和されるにほかならない。 むしろ、従来の規制の代わりに、新たな規制が必要とされよう。さらにこの新たな規則は、現在の社会経済環境を分析し、将来の金融に必要な姿を想定したうえでのものでなければならない。将来の円滑な金融という統一の思想にもとづいて、金融システムを再構築しなければならないのである。 従来の金融システムに対する規制の特徴をまとめておけば、1つは、政府によるガバナンス(規制もしくは統制)であり、その政府のガバナンスの一部を金融機関が代行していた点である。もう1つは、その代行の代償として、金利規制のもとで、金融機関は安定的な経営基盤を確保できた点である。 この従来型のガバナンスが支配している金融市場では、本来の投資家(資金供給者)は影が薄い。投資家としての主張は金融機関が代弁してくれることになっていた。しかし、その金融機関や金融機関が提供している商品を選択しようとしても、差別化戦略がとられていないため、無意味だったのである。かつての金融商品(預金、投資信託、保険など)に金利や商品のバリエーションがどの程度あったのか、金融機関の倒産リスクを考える必要があったのかというようなことを思い起こせば、この点は明らかであろう。逆に金融機関からすれば、そのような差別化戦略をとっても、収益に貢献しなかったのである。 極論すれば、投資家は何かを考えたうえで行動を起こすということがなかったし、そんなことをしても無駄だったのである。このような状態が何十年も続けば、投資するに際して「考える」という常識も、実際には非常識になってしまうであろう。その結果、ますます「考える必要がない投資環境」をしつらえなければならなくなったのである。いってみれば、「投資家保護」が「投資過保護」になってしまう恐れである。 証券不況時(昭和40年)やバブル崩壊以降に、元本割れとなった投資信託の償還を延長して、元本の回復を待ったのは、「証券価格は変動」するという常識を超えた措置である。信用組合の破綻に際してすべての預金を原則として払い出しの対象としたのも、「金融機関だって倒産する」という常識を超えた措置である。 今後の金融システムに必要なものはつぎの2つである。1つは、常識を常識として認識し、実行できる(実行しなければならない)環境であろう。預金者を含めた「投資家保護」は必要であるが、保護の意味が異なるのである。もう1つは、金融技術の発展に基づいたシステムの組み替えである。投資家の常識は、新たな金融システムにおいて、いっそう強調されるべきだろう。これらの点を少し説明しておきたい。
「富」が「お金」で表現されるものだとすれば、「富」の増大を目標として行動している国民が、お金の投資に関して無頓着でいられないはずだからである。依然として新たにお金を稼ぐことに必死なのに、稼いだお金を誰に預けるのかには無頓着な状態というのは、タイト・アンド・ルーズ(tightandloose)の典型で、稼いだ尻から漏れていくことになりかねない。もっとも投資家からすれば、従来はタイト・アンド・ルーズでも何の問題もなかった(結果の差も少なかった)ように見えたのである。しかし、今後は違ったものになろう。 この自己責任原則という基本をベースにしながらも、あるときにはわざと(たとえばコストを節約するために)基本を実行しなかったり、マスコミ情報だけで判断したり、専門家から機能提供を受けたりするのである。しかしあくまでも、基本から逸脱したことによって生じうる損失は投資家がみずから被らなくてはならない。
このような投資家を保護するための仕組みは2つあり、各々区別すべきである。 従来、投資家が投資判断する場面は少なかった。このため、開示に重要性はなかった。最近まで社債の発行開示が免除されていたのは、その最たる例である。しかし、常識が常識として通用するようになれば、開示に基づいて投資先や仲介機関を選別することが重要になる。一方、不公平もしくは不正取引行為の防止は当然であろう。 もう1つは、弱者の保護である。現在の預金保険のような保護制度である。弱者のために特別の金融商品を設定することも考えられよう。このような、従来から導入されていた保護制度は自己責任原則とあいいれないものであり、消極的な投資家保護であろう。 しかし、消極的な投資家保護は、弱者に対する社会・経済システム全体をどのように考えるかに基づくべきものであり、金融システムだけで考えていたのでは最適な答えは導けない。あるときには過保護になり、あるときには保護不足になりかねないのである。弱者の定義を明確にし、その定義に基づく措置がまず考えられ、そのなかで金融システムとして考慮すべき点を導くべきである。 さらには、金融システムの問題に限定して考えても、預金保険は預金者保護(という弱者保護を意識した機能)だけでなく、金融システムの安定性という目的(言い換えれば機能)を有している。このことは、弱者保護と金融システムの安定性を区別し、整合性を図る必要があることを意味している。さもなければ、議論の紛糾が避けられないのである。
まず、金融という社会的な機能がさまざまなサブ機能から構成されていることは、それらの機能の自由な組み合わせが理論的に可能だということを示している。一方、金融に関する技術の現状は、金融という機能のより深い理解と活用がはじまったという事実にとどまらず、「金融という情報」の伝達、加工技術の発展にまで及んでいる。金融理論、投資理論、計算技術、通信技術、それらのソフトを支えるハードウエア技術の発達である。 このような技術の発達は、金融機能の自由な組み合わせを理論段階から現実段階へと移しはじめている。証券化や電子マネーがその典型であろう。後は、既存のシステムである金融制度との摩擦をどのように解決するか、それらの技術を使いこなすための新たなシステムをどのように作るかだけであろう。 ところで、金融機能を自由に組み合わせたいというニーズ(たとえば証券化)や、金融技術の発達は、社会経済のなかで「富」が蓄積した結果でもある。民間が保有する資金量が多くなると、単純に流動性を確保するだけでなく、「有利な投資を」というニーズが高まるのはほぼ必然である。また、「有利な投資」は1つにかぎらないため、多様な金融機能を求めるのである。 このようなニーズが、預金の2つの機能(決済と投資)を峻別するように働いたり、理論に基づいた投資を求めたりするのである。また、資金量が大きくなったことは、投資に多少のコスト(調査費用や専門家へのフィー)をかけても採算にのるようになったことを意味している。 さらに、そのようなニーズに資金調達者や仲介機関が積極的に対応しようとして行動するのも必然であろう。投資家が望むキャッシュフローを生み出し、一方で仲介機関が負担するリスクを軽減すために証券化が発達したのは、このような対応の例だろう。機関投資家の役割が純化してくるのも、もう1つの例である。 金融技術の発展に対する社会的なニーズがあってこそ、金融自由化が進展したのである。同様に、金融機能の再編成と、新たな金融システムに対する認識が、少しずつではあるが高まっている。金融自由化や金融技術の発展は、本質的には行政などによる政策の産物ではなく、民間のニーズに基づいたものであった。行政の役割は、既存の金融システムを改革して、金融に対する民間のニーズの実現を促進することにあったのである。 それだけに、今後も金融システムを革新する動きは続き、金融機能の自由な組み合わせが実現していく可能性は高いであろう。今後、実現していく金融とは、金融に必要なサブ機能の組み合わせがワンパターンでなくて多様になることから、現在の金融システムのイメージと異なったものになろう。 しかし、新たな金融が完全に自由なものとならないのは最初に述べたとおりである。金融機能の自由な組み合わせが実現したとしても、依然として「金融システム」という仕組みが残り、それが金融に対して一定の制約を求めよう。
新たな金融システムの制約を例示しておこう。 一方、投資に関する機能に対しては、開示、プルーデント・マン・ルールなどであり、それらに基づく投資家の自己責任原則である。事前に投資判断するための情報が必要十分に与えられ、また不公平もしくは不正取引が防止されていれば、事後的な投資結果に対しては投資家に何らの保護も与えられない(保護に相当するような規制がまったくない)ことを意味する。 このような金融システムのなかで、証券化が行われるわけであるが、証券化商品の開示、証券化の器機能に対する規制(税制や法的な位置づけ)、カストディの忠実義務など、証券化に必要なそれぞれの機能に対して規制が設けられよう。
社会・経済システムは複数の機能によって構成されている。それらの機能は社会・経済システムのサブ・システムであり、さらに細かな機能によって構成されている。しかし、機能を組み合わせてシステムを構成しようとしても、その組み合わせ方は一意的に決まらない。金融システムを構成している証券化、機関投資家、決済システムの例は、高度成長期に確立された日本の金融システムが普遍的なものでないことを示している。むしろ、日本の金融システムが激しい変革の波を受け、現在の機能の組み合わせが望ましいのかどうか問われているのは周知のとおりである。 また、システムは機能から構成されているが、それらの機能が自由に動作するわけでない。機能に対して何らかの制約が存在する。「社会・経済システムに必要な機能」という問い(もしくはそのような定義を求めること)に、すでに制約が入ってしまっている。社会・経済システムに対する何らかの目的意識がなければ、必要な機能が選べないし、それらの組み合わせ方も決まらない。 高度成長期の日本の社会・経済システムに対する制約は、直接には行政によって与えられていた。欧米という統一目標が、言い方を変えれば制約となっていたのである。しかし、高度成長期が終わってそのような統一目標がなくなったということは、社会・経済システムの制約が不明瞭になったことを意味する。「富」の達成という目標だけがその後も存続しているものの、それを達成するプロセスへの合意は得られていないのである。もちろん、「富」の達成という目標が最適なのかどうか(たとえば環境という制約が富という目的と整合的なのかどうか、また環境をどの程度考慮すべきなのか)ということはほとんど意識されていないようである。 では、今後の社会・経済システムに対する具体的な統一目標が形成されるのかというと、それも無理だと考えられる。現在の日本のように豊かな社会では、具体的な目標を経済に対して設定するのは矛盾である。 個人が豊かさを求めるのは、さまざまな社会・経済的な束縛から解放されたいからであろう。一方、社会・経済システムにおける統一的かつ具体的な目標とは、制約そのものでありで、具体的であればある程、強くシステムを束縛することになる。このことから、豊かな社会が実現した後にも具体的な統一目標の保持を続けようとすることが矛盾であり、無理な発想であるのは明らかだろう。 別の表現を用いれば、社会・経済システムが統一目標として具体的に設定しうることは、個人の生活を支えるために最低限必要な、基礎部分についてでしかない。最低限の衣食住、生活の安全、義務教育、光熱、水道、交通、資金決済などの社会的インフラストラクチャであろう。それ以上の部分について、たとえば別荘、徴兵制、地域冷暖房、高速道路、ヘッジファンドなどを現時点で社会的インフラストラクチャとして(当然国民の追加負担を求めながら)完備すべきかどうかについては千差万別の意見がある。このため、社会的な統一目標を具体的かつ過度に設定することは不可能であり、もしも設定したとしても国民の反発を招く恐れがあり、非効率である。 基礎部分を超えた部分について、今後の社会・経済システムとして可能なことは、できるかぎり市場経済に委ねることであり、それを促進するための措置を用意しておくことでしかない。この点でも、行政は市場経済の基礎部分を提供するだけであり、それ以上は埒外である。言い換えれば、基礎部分を超えた部分について行政として可能なことは、社会・経済システムの「仕組みに関するマニュアル」を提示することであり、それを超えた具体的な指図ではない。 たとえば、市場経済を促進するため、独占禁止法の適用を強化して競争を促進すること、開示制度を改善して時価会計や連結決算制度を推進すること、機関投資家の権利と義務を明確化すること、決済制度と預金保険制度を純化して決済システムの堅固さを強化すること、投資家の自己責任原則を原則とするための措置などである。とりわけ、市場経済においては効率性を追求するために専門家に機能提供を委託することが多いが、その場合の委託と受託の関係の明確化と、モニター環境の提供が重要であろう。 このような市場経済に対する行政の本来的な役割をつきつめていけば、事前規制中心の行政から事後規制中心の行政への転換が求められることになろう。事前に経済システムを規制するだけの、具体的な統一目標がないのだから、当然のことであろう。「市場経済」という目標があるにしても抽象的なものだけであり、事前に具体的な目標が定まるものではない(もしも事前に具体的な目標が定まるものであれば、それは市場経済ではなく、計画経済である)。事後的に観察して、市場経済の原理が適用されているのかどうか評価できるにすぎないのである。 もう少しいえば、市場経済に最低限必要なインフラストラクチャを提供した後は、その環境の中で経済主体がどのように行動し、「富」の形成を行っていくのかに対して、行政は直接に関与しないことになる。不公正な取引が行われたり、著しく不適当な機関(たとえば必要最低限の自己資本さえ保有しない決済機関、専門家としての義務を明らかにまっとうできないと判断できる機関)が経済機能の提供者になろうとしたりした場合にのみ、行政が介入することになる。 いわゆる規制緩和も、「事前規制の緩和」と考えられよう。規制がなくなるわけでないのはすでに述べたとおりである。 現在、行政の役割と組織の見直し論が台頭している。このような見直し論も、「事前規制から事後規制」へという流れに沿っていると考えれば理解しやすいであろう。もちろん、見直し論のすべてが「事前規制から事後規制」を明確に意識したものだとはいえない。しかし、事前規制が国民の要望している以上の役割(制約)を提供するものだと直感しているのである。 行政の見直し論は、具体的な行政機能が二重性をもっている部分にも波及しよう。たとえば、公的年金は福祉機能とともに財政投融資のための資金調達機能を担っている。また、財政投融資は公的なインフラストラクチャを形成するための機能とともに、景気対策としての機能を担っている。2つの機能を同時に追求することが、行政に期待される役割(社会・経済システムの基礎部分の提供と事後規制)という観点から判断して、合理的なのかどうかである。2つの機能において必要十分な役割の提供が、同時に、かつ常に達成されることはかなり困難である。 このような本質論と比べれば瑣末なことであるが、重複規制や縦割り規制も規制緩和の対象であろう。たとえば、日本銀行と大蔵省の金融機関に対する監督権の重複感の問題、証券化に対する証券取引法と特定債権譲渡規制法の併存の問題、金融機関に対する規制が大蔵省、郵政省、農林省などに分かれている問題が指摘できよう。このような状況を一本化すべきなのか、そうでないのか(お互いの規制が競争していたり、補完していたりするのか)、市場経済という目標に照らして最適な機能の提供が行われているのかどうかが検討されなければならない。 以上の結語で述べた、社会・経済システムが直面しているさまざまな課題からすれば、本稿で示したデッサンは非常にラフなものでしかない。しかし、社会・経済システム全体に関するより詳細なデッサンを即座に提示するのは、筆者にとって不可能である。筆者に可能なことは、全体の見取り図のなかで、一部のサブ・システムに関するデッサンを示すことであり、それが本稿であった。 残された重要なサブ・システムについて、デッサンを描き、さらにデッサンに少しばかり彩りを添えることが筆者にとっての今後の課題である。そのような新たな機会にも、本稿で示した見取り図は有効性を失っていないものと思っている。
榊原英資(1993)『文明としての日本型資本主義』 東洋経済新報社 浜田道代(1994)「国家・企業・家族」加藤雅信編 『現在日本の法と政治』三省堂
堀内明義編著(1996)『金融の情報通信革命』
ニッセイ基礎研究所 川北英隆(1996)「株式市場の成熟と機関投資家」 『QUICKREPORT』VOL.22、
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