文書No.
960708
一橋大学教授 伊藤邦雄
今年四月のG7終了後にルービン米財務長官が発表した「議長総括」には異例の内容が盛り込まれた。国際金融資本市場の危機を回避するため、証券監督者国際機構(IOSCO)が進めている国際的な会計基準づくりに対し支持を表明したからである。IOSCOには日本の大蔵省も加盟している。 いま話題の国際会計基準(IAS)は、もともと職業会計士団体である国際会計基準委員会が設定、発表してきたものである。最近ではIOSCOがIAS支持の姿勢を強めており、国際的な会計基準づくりがにわかに現実味を帯びてきた。 ただ、IOSCOはIASをテーマごとに個々に承認するのではなく一括して承認することを決めたため、包括的な会計基準の体系「コア・スタンダード」が完成する九九年六月以降にIASが承認される予定だった。しかし、IASの早期完成への期待が強く、承認は最近、九八年三月に前倒しされた。IASに対し沈黙を続けていた米証券取引委員会(SEC)も、これに賛成の意を表明している。 このように風雲急を告げているIASは、日本の会計制度、金融資本市場、さらには企業の行動や戦略に大きな影響を与えかねない。その影響の広さと大きさからいって「パンドラの箱」にもなりかねない。様々な変化の「ドミノ現象」が起こるかもしれない 。しかし、「箱」の中身をめぐり誤解と根拠のない憶測が充満しているのが現状だ。 いかなる制度も環境と不適合を起こせば硬直化し疲弊する。会計制度も例外ではない。日本の会計制度は、商法、証券取引法、税法の三つの法規制の緊密な連携のうえに均衡を保ってきたことから、「トライアングル体制」と呼ばれる。日本型構造ともいえるこの均衡構造はいま、IASやデリバティブ(金融派生商品)取引増大などの環境変化の中で揺れている。 IASは日本の会計制度にいかなる影響を与えるのか。会計制度のグローバル化はどのような意味をもつのか。会計制度が環境に適応するには、日本の制度をどのように再設計したらよいのか。このシリーズではこうした問題を検討しながら、パンドラの箱の中身を透視してみたい。 ただ、箱の中身は広範である。そこで、昨今の金融機関の不良債権の処理や開示に対し、グローバルな視点やIASと比べてその後進性が指摘されていること、また日本企業に対する影響が最も大きいと思われることから、金融資産の評価基準を中心に検討を進めよう。 これまで各国ごとに設定されてきた会計基準を、なぜ国際的に統一あるいは調和させる必要があるのだろうか。 最も一般的な論拠は、会計報告書の比較可能性の確保とコストである。つまり、各国の企業が国際資本市場で資金調達する際に、各国ごとに異なる会計基準に従って会計報告書を作成すると、投資家やアナリストは異国企業同士の財務内容を比較分析できない。 もちろん、アナリストは修正計算をして比較可能にすることができるが、それには時間とコストを要する。さらに証券発行国(資金調達先)の会計基準に準拠して報告書を作成すると、企業側は証券発行国が異なるたびにその国の基準に従わなければならず、コストを含む負担が過重となる。 このほかに、実はもう一つの論拠がある。各国間で会計基準が異なっていると、どのような企業行動が誘発されるのか。企業の買収を例に考えてみよう。 買収を行うと、のれん(営業権)が生じる場合が多い。のれんの会計基準、特に償却期限については各国間で異なるルールが設けられている。例えば、日本では五年を限度とする費用計上が要求されているのに対し、米国では四十年と八倍の開きがある。また、英国では最近ルールが変更されたが、かつてはのれんを資本の部の剰余金で相殺し、費用計上しないことができた。 こうした会計基準の国際的差異は、企業の買収行動の競争力に影響を与える。例えば、米国企業の買収をめぐり他の米国企業と英国企業が争った場合、他の条件が等しければ、英国企業のほうが有利に買収を展開できる。英国企業はのれんの費用計上の必要がなく、買収後の損益へのダメージが米国企業より小さいため、買収価格をより高く設定できるからだ。実際、八〇年代に米国で買収ブームが起こった当時、米国企業の買収件数で英国が一位を占め、この点が米国でも問題視された。 このように企業は買収のみならず、他分野でも会計基準の国際的差異を活用して会計的裁定行動を取る傾向がある。本来は戦略の優劣が企業競争力に差をもたらすべきだが、会計基準の差異が企業競争力を左右してしまうのである。 会計基準の国際的調和化は、こうした事態を回避する効果をもつ。国際市場で競争を行う場合、企業が他国と共通のルール・条件のもとにフェアに競争することを可能にする点に、その意義がある。 国際会計基準(IAS)は必ずしも各国の会計基準自体を変更・修正することを要求していない。本来の目的は、国際資本市場での資金調達に際し、統一的なルールに従った比較可能な会計報告書の提出を求めることにある。 では今後、IASはどのように展開するのか。資本市場の反応や規制当局の取り組み次第で、いくつかのシナリオが予想される。 IASはコア・スタンダードの完成する九八年三月以降に、証券監督者国際機構(IOSCO)が国際資金調達に当たっての会計基準の一つとして承認する可能性が高い。この場合、日本企業は二種類の会計報告書を、そして二つの異なる会計利益を開示することになる。つまり国内基準に基づくものとIASに基づくものである。これが第一のシナリオ(ダブルスタンダード・シナリオ)である。 この場合、資本市場(参加者)の反応は二つ考えられる。第一は、国際資金調達の時にのみIASに基づく会計報告書を利用し、それ以外の場合は国内基準の報告書を利用するというものだ。つまり、二種類の会計制度が「すみ分け・共存」するというものである。 第二の反応は、二種類の会計報告書の間で競争が起こり、企業の実態をより適正に表示する会計報告書が利用されるようになり、自然淘汰(とうた)の結果、どちらかの報告書に収れんしていくというものである。つまり、IASと日本の基準との間で「会計制度間競争」が展開される。市場原理と会計規制との間の相克により、最終的に市場原理によって会計実務が形成されていくわけだ。 第二のシナリオは、国内基準をIASに適合させる形で調整が進められるというものである(国内基準調整シナリオ)。 このシナリオは二つに分かれる。第一は、IASを国内基準の一つの選択肢として認め、後にIASに合わせる形で国内基準を修正するものである。第二は、会計制度間競争によってIASが普及していった場合、それを無視できず、国内基準をIASに調整していくというものである。 最後のシナリオは、九八年三月以降もIOSCOがIASを承認せず、各国間の“相互承認”によって国際間調整が図られるというものである(相互承認シナリオ)。 いずれにせよ、会計制度のグローバル化の波は、IASとの“競争”と“協調”を同時に強いることになろう。二十一世紀に向け、会計制度は戦略的な「グローバル“協争」の世界に入っていくことになる。 金融資産に関する国際会計基準(IAS)は様々な論議と反発を巻き起こしながら、基準二五号、公開草案四〇号、同四八号と修正が加えられてきた。以下、四八号について検討しよう。 四八号は金融商品を対象とし、金融資産・負債・資本のほかにデリバティブ(金融派生商品)も対象としている。金融商品は、(1)長期または満期まで保有するもの(2)ヘッジ目的のもの(3)上記のいずれにも該当しないもの――に分類される。 それぞれの測定基準は次のとおり。(1)のうち持分証券などの「ノンマネタリー金融資産」は取得原価で、営業債権などの「マネタリー金融資産」は割引現在価値で測定する。(2)はヘッジとして会計処理する。(3)は公正価値(時価)で評価し、公正価値の変動額はその期の損益に算入する。 要するに、ヘッジ目的以外の短期保有の金融商品について時価会計を適用し、かつ日本でも問題となっている営業債権にも時価測定を要求しているのである。ところが、公開草案四八号に対しては、特に測定基準に対し批判的なコメントが多数寄せられた。このため、開示の部分だけを分離して基準三二号として九五年六月に発表し、測定に関する部分は継続審議とされた。現段階では、金融資産の測定基準は決定していない。 しかし、予測は可能である。それはIASの設定プロセスにおける米国の影響力である。第一に、IASが米財務会計基準審議会が公表する会計基準と極めて類似している。第二に、証券監督者国際機構(IOSCO)は満場一致を決議要件とし、これまで米証券取引委員会(SEC)の反対で議事が何度もまとまらなかった。つまり、SECが国際機構に隠然たる圧力をかけうる地位にある。 これは、会計基準の国際的調和化が、IASをう回した米国基準の間接的な世界浸透プロセスだったことを示唆する。そうならば、米国基準はどうなのか。負債証券と持分証券は、(a)満期保有目的有価証券(b)売買目的有価証券(c)売買可能有価証券――に分類される。(a)は先の(1)と同じと考えてよい。(b)は短期の売買を目的としたもので、公正価値(時価)で評価され、評価損益は当期の損益に算入する。(c)は右の分類に属さない有価証券で、公正価値で評価するものの、評価差額は株主持分(資本の部)の独立の項目として報告する。 先の基準浸透プロセスに照らせば、やはりIASは一部の金融商品を除き、時価会計を導入する可能性がきわめて高い。 前回述べた時価会計の潮流に、日本はどう対処するのか。それには日本固有の問題を解決しなければならない。第三回で述べた「国内基準調整シナリオ」を前提に考えてみよう。 トライアングル体制をとる日本の会計制度は、税法を除いて大胆に表現すれば、債権者保護を目的とする商法計算規定と、投資家保護を目的とする証券取引法開示規定と企業会計原則(以下「会計基準」と呼ぶ)が密接に交差しながら、一つの制度を形成している。 時価会計の潮流の根底には、投資家による企業の業績判断や将来のキャッシュフローの予測の尺度となるような属性(業績尺度性)を満たす利益を提供しようとするねらいがある。これはどちらかといえば、証取法や企業会計原則の立場に近い。 ところが、債権者保護に重きを置く商法に適合する利益は、それを株主に分配しても債権者の利害が守られ、元本・利子回収リスクが危険にさらされないような、その意味で分配の尺度となるような属性(分配尺度性)を備えていなければならない。 日本の制度の特徴は、基本的に一つの会計利益で、これら二つの必ずしも同化しない属性を、バランスを取りながら満たそうとしてきた点にある。つまり、「一元的解」としての利益によって会計制度の均衡を図ってきた。したがって、こうした均衡を維持しようと思えば、最近の時価会計の潮流に適合することは難しい。 ここに日本の問題がある。いいかえれば、分配尺度性の問題を解決しないと、グローバル化の波に乗れないのだ。以下、二つの問題を取り上げよう。第一は、評価益に相当する資金的裏づけがあるかどうか。第二は、時価評価に伴うリスクの問題。 第一の問題は、市場が整備されてきているため、換金可能性は高くなっており、重大な問題とはいえない。むしろ第二の問題のほうが重大だ。 第一に、期末時点の市場価格は十分に客観的だが、評価時点以降の市場価格は変動する可能性があり、値下がりのリスクを抱えている。こうしたリスクを伴う不確実性を内在した会計利益は、債権者保護には不向きである。時価評価をベースとした会計利益に何らかの修正・限定が必要である。 第二に、市場は価格変動リスクを見込んで評価している。そのため、金融資産の値上がり分に相当する保有利益を配当してしまうと、配当後の企業価値は値上がり前の水準を割り込んでしまう。結局、企業価値の下落分だけ債権者が負担することになり、債権者保護に反する。
この二つの問題をどう克服したらよいのか? これを防ぐ道は、商法と会計基準がそれぞれの使命に徹し、両者を従来のように強いリンケージで結ぶのではなく、緩くリンクさせることでプラスサム的な解決策を講じることにある。要するに、一元的解に基づく「強均衡アプローチ」から、二元的解に基づく「弱均衡アプローチ」に転換すべきだと私は思う。 それは、業績尺度性を備えた資本・利益計算と分配尺度性を備えた資本・利益計算とを分離し、前者を証券取引法系列の会計基準が、後者を商法が担うというものである。 具体的には、国際会計基準や米国基準の金融資産の分類法は微妙に異なるが、いずれにしても時価評価が要求されている金融資産に対し、次のように会計処理する。 証取法系列の会計基準ではそれを公正価値(時価)で評価し、認識した保有損益を当期の利益に含める。他方、商法上の損益計算書でもこうした保有損益は計上するが、配当可能利益の算定に当たっては、保有損益は未実現として配当可能利益から除外する。 その場合、未実現の保有損益は株主持分の一項目として計上する。これによって「分離」と「連結」の両立が可能となる。つまり、弱均衡アプローチとは分離と連結のパラドックスを解決する基本的思考といえる。そのねらいは、会計基準と商法とをルースに連結することで会計制度のネットワークを作り、それぞれが環境変化に伸縮的に対応できるように制度のダイナミズムと効率性を高めることにある。さらに、こうしたアプローチは原価主義と時価主義との境界をあいまいにするほど相互浸透を促す。その結果、原価主義対時価主義という対立図式から会計制度を解放し、漸進的進化を可能にする。 弱均衡アプローチに基づき再設計された「弱均衡型会計制度」は、金融資産に限定されるべきでない。実は、時価主義に基づく年金会計や連結財務諸表に基づく配当計算の導入にも広く適用できる(拙著「会計制度のダイナミズム」岩波書店、参照)。そこでも分離と連結の両立効果と境界除去効果が実現できる。「弱均衡」という設計思想のもとに、二十一世紀に向けてグローバル協争”に耐えうる会計制度の変革を急ぐべきである。
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