ディスクロージャー研究学会



(青空に物事を晒すと虫干しされ綺麗になる)

文書No.
960717

経済のしくみの改革/大企業の民主的規制と経済のルールづくり

    日本共産党創立74周年記念講演「日本共産党はどのような日本をめざすか」から抜粋

    同党幹部会委員長 不破哲三 

 日本の経済力と財政力の使い方が、大企業優先に根本からまちがっているんです。これを切り替えようというのが、日本共産党の国内政治の一番の主張であります。

この問題では、予算の使い方だけではなく、経済のしくみの改革も大事です。
 経済のしくみの改革という問題で、私たちの立場を理解していただくために、とくに申しあげるのですが、私たちは、大企業優先で国民が踏みつけにされるしくみは変えなきゃいけないと思っていますが、いまの日本で、大企業をつぶしたり、大企業を国有化したりすることは、考えていないのです。

 実は、ヨーロッパの共産党や社会主義運動の多くは、その点で、私たちとずいぶん流れがちがいました。ソ連の影響がつよいこともありましたが、経済のしくみを変えるというと、すぐ社会主義革命だという傾向がつよかったのです。また当面のことでも、国有化万能といいますか、国有化すればことがすむじゃないかという考え方が、大変つよくありました。

 しかし、社会のしくみを変えるということは、国民の合意と納得のもとに、階段を一段一段上がるようにすすむものです。日本のような資本主義国でも、まず民主主義が大事だ、経済も民主主義的な改革が大事だ、まず、それを実現して、国民のあいだで次の一歩へすすもうという機運が熟したときに、よりつっこんだ改革が問題になる。そういう立場で、私たちは、社会主義革命論ではなく、民主主義革命論をとなえてきました。

 いま、経済のしくみを民主的に改革するという場合にも、国有化というのは、ちょっとみれば前向きの改革のようにみえますが、大企業を国の管理と所有に移すだけでことが解決するかというと、問題はそう単純ではありません。よほど国民の側、民主主義の勢力の側で、国全体の経済をどう運営してゆくかについて、すぐれた力といいますか、経験や知識や熟練の積み上げをもっていないと、いままでこれは会社がもっていました、あしたから国有ですよという切り替えで、経済がうまくゆくわけでは決してないんです。だから私たちは、当面する経済改革では、国有化は基本的にはとらないということを、はっきりさせてきました。

 では、なにをやるのか。日本では、経済のいろいろな分野で、政府がいろいろと口や手を出すしくみがあるでしょ。「護送船団」政治もその一つでした。ほんとうにいろいろな口出しのしかたをしている。これが国民の立場にたったまともなやり方なら結構ですけれど、財界・大企業の側に立ってこれを応援する口出し手出しをやるものだから、政府が手を出すたびに国民がひどい目にあうということになるんです。

 たとえばバブルが崩壊した、銀行が大変だということになると、預金しているみなさん方の懐のことは考えないで、金利を前例がないところまで下げちゃったでしょう。これによって銀行は十数兆円にものぼる余分のもうけをあげましたが、預金の利子をあてに暮らしていた年金生活者の方たちは、この低金利でいま大変な目にあっています。

 そういう大企業、大銀行の側に立った手の出し方、口の出し方をやめる。しかし、ほんとうに国民の立場に立って必要なルールづくりといいますか、これをやり、大企業の横暴勝手をおさえる。これを私たちは、大企業にたいする民主的規制とよんでいます。いま、日本で必要なのはそういうことです。

 こうして、日本の大企業が国民を踏みつけにして、勝手なまねをしないようなルール、世界の多くの資本主義国では常識になっているが、日本にはないような国民の暮らしや権利をまもる民主的ルールをきちんとつくってゆこう、これが私たちの経済改革の方針の大きな柱であります。


大企業トップの反省とマルクス『資本論』の教訓
 実は、私がたいへんおもしろいと思っているのは、日本の財界の方のなかで、私どもとよく似た主張を展開している人がいるんですね。ソニーという電気機械の会社をご存じでしょう。四年ほどまえに、あそこの会長(当時)の盛田さんという方がある雑誌に、「日本型」の経営のやり方はもうダメだという論文を発表したのです。自分の会社の競争力をあげることばかりに熱中して、労働者には世間なみの賃金をはらわないし、労働時間も長すぎる、下請けをいじめる、環境は壊しても平気、地域経済のお役にたとうなんて考えない、そういうやり方では、世界から相手にされなくなるよ、という論文です。まあ、大経営のトップにたつ経営者の文章ですから、「下請けいじめ」などとあからさまにはいわないで、“取引先との関係では、取引条件が部品供給企業に不利に決定される”といった調子の表現で書かれていますけれども、要するに中身はそういうことです。私は、大企業の経営陣にも、そこに目をつけた方がいるなと思って読んだのですが、それにつづく彼の結論がなかなかおもしろいのです。

 そういうことを個々の企業でやろうとすると経営が危機におちいる。気がついても、ひとりではできない。だから、日本の経済・社会全体のシステムを変えてゆかなければだめだというのが結論でした。要するに、国の法律とか、行政指導とか、政治の対応をふくむ太い線で改革をやらないと、ほんとうに世界にまともに通用するような経済や経営はできないんだということです。

 実際、労働時間が長いという問題でも、残業時間を制限する法律をつくれば、経済界全体として、この問題の解決がつくはずです。下請けいじめでも、無法なやり方をやってはいけないという政府の通達は、ずいぶん出ているのですが、法律ではありませんから、だれも守らない。そのことが関係者に義務づけられるようなルールをちゃんとつくれば、経済界全体でそれが実現するようになってゆく。環境を壊す問題では、日本には環境アセスメントの法律もないわけですから、必要な法律をちゃんとつくり、企業活動、開発活動をやるときには自然環境、生活環境を守らなければいけないということを、法律の裏付けのあるルールにしてゆけば、この問題も大きく解決できる。

 こういうやり方で、民主的なルールをつくり、大企業の横暴を国民の力、政治の力できちんとおさえてゆこう、これが私どもの方針です。

 私は、個々の企業ではできないというソニーの盛田さんの結論を読んで、実はマルクスの『資本論』を思いだしたのです。マルクスの『資本論』には、労働時間の問題を詳しく論じたところがあります。イギリスの状況が中心ですが、以前には、労働時間は長ければ長い方がいいという時代もありました。それにたいして、労働者の側から、法律で10時間に制限せよという運動がはじまったら、資本家の側はそれこそ大変でした。資本家は、最後の1時間でもうけをあげているのだから、かんじんの最後の一時間を削られたら全部破産してしまうとか(笑い)、そんな議論をやる経済学者がでてきたり、マルクスが「半世紀にわたる内乱」と特徴づけたくらい、労働時間をめぐってのたたかいは激しいものでした。最後には、議会で法律が採択されて10時間労働法ができ、それがだんだんひろがってきました。それによって、イギリスの産業が活力を失ったかというと、まったく逆なんです。労働者が健全な労働条件、労働環境を確保したら、どこの産業も活気がでて、10時間労働法のもとで、イギリスの産業の空前の繁栄が生まれたのです。

 マルクスは、こういうことを論じながら、自由競争の資本主義のもとでは、資本主義的生産に必要な法則も、「個々の資本家にたいして外的な強制法則」として実現すると、なるほどうまいことをいったものですが、そのことばが名文句として『資本論』に残っています。

 いまの日本でも、世界に通用しない横暴――過労死や中小企業のひどい状態や環境破壊を生むような大企業の横暴を、法律の裏づけをもった民主的ルールで解決する。それが日本経済全体の発展に役立つということが、いまの日本社会でも確認できる一つの到達点だと思います。

 私たちはそういう方向で、経済の分野でも、「国民が主人公」という第一歩を大きくふみだしたいと思っていますが、いかがでありましょうか。(拍手)

 実は、ヨーロッパの社会主義運動とはちがう日本共産党のこの方針――大企業にたいする民主的規制の方針は、国際的にも大変注目が集まっています。そのやり方を勉強したいという人も結構いるのです。


安保でも経済でも国民的努力で解決策を
 安保の問題にしても、経済の問題にしても、全体を解決してゆくには時間がかかりますけれども、私たちは、どんな個別の問題についても、そういう方向で、そのときどき最良の解決策を探究するということを基本的な立場にしています。その道を一歩でも二歩でも前にすすむ、こういう方向を、みなさんとご一緒に、国民的努力で大きくひらいてゆこうではありませんか。(拍手)


社会主義とは──「国民が主人公」を本格的・全面的に実現する
 “当面のことはわかる。しかし、日本共産党は共産党なんだから、社会主義、共産主義をめざしているはずだ。社会主義になったら、「国民が主人公」とはいえなくなるじゃないか。前のソ連がそうだったじゃないか”、そういう方もおいでかもしれません。


旧ソ連社会は、社会主義とはまったく別個の世界だった
 たしかに前のソ連は、「国民が主人公」とは別世界でした。主人公はモスクワのクレムリンにいるごく少数の人たちで、国民は、いま日本でわれわれがもっているような自由と民主主義ももちえませんでした。それは、社会主義が「国民が主人公」とちがうものだからではないのです。ソ連が社会主義とはちがう社会だったからであります(拍手)。私たちは、一昨年の第20回党大会で、旧ソ連社会は、社会主義とも、社会主義に進んでいく途中の過渡期の社会ともまったく縁のない、国民抑圧型の社会だったという結論をだしました。

 社会主義の大先輩にマルクス、エンゲルスという人がいますが、彼らは社会主義について、実に簡単明瞭(めいりょう)な見とおしをあたえています。これまで人間はいろいろ外からの力に支配されていた。それには自然の力もあれば、社会の力もある。そういうものが、外部の力として、人間を支配していた、ということです。社会主義になるということは、人間が社会生活の主人公になるということだ。だから自然との関係でも、自然の法則をつかんで、自然と共存できる。こういう意味では、自然の主人としてふるまえることになるんだと強調したことがあります。

 つまり、「国民が主人公」、「人間が主人公」ということを一番本格的、全面的に実現するのが社会主義という社会発展の方向なのです。

 旧ソ連では、スターリンなど歴代指導部の思惑で、気にいらないものは、理由なしに収容所へいれられたり、命も危ないということになる。こんな不当な迫害をうけ、命まで脅かされている国民が、「主人公」であるわけがないじゃありませんか。 旧ソ連の支配者たちは、外国にたいしても、国民がその国の主人公だということを認めない。チェコスロバキア、アフガニスタンに、どんどん軍隊をだして侵略しました。日本共産党のような自主独立の党にたいしては、ありとあらゆる攻撃をくわえる。まったく「国民が主人公」とは、無縁のやからでした。

 だから私たちは、すでに32年前、ソ連共産党が日本共産党に攻撃をくわえてきたときに、大反撃の手紙を書いて、あなた方の立場は社会主義ではない、本来の共産党の立場ではない、にせものだという告発をおこなったのであります。


内外を驚かせた「自由と民主主義の宣言」
 国民、人間が社会の主人公であるためには、自由が大切であります。自由といってもいろんな角度があります。だいたい、生きてゆく自由、生きることが保障されなければなりません。それからまた、市民として、また政治の主権者として、それにふさわしい自由と権利が必要です。国民として、外国に左右されないで自分の運命と進路を決める民族の自由が必要であります。私たちはこういう立場で、人間にとって国民にとって必要な自由を、「生存の自由」「市民的政治的自由」「民族の自由」という三つの面でまとめました。

 社会が前向きにすすんでゆくということは、この三つの自由がそれぞれ前向きに発展して拡大してゆくことであって、たとえ経済が多少上向いたとしても、国民の自由がせばまり、不自由になるならば、それは、社会にとっては後ろ向きの後退だという立場を、はっきりさせる必要があります。 きょう、「自由と民主主義の宣言」をお配りしましたが、これは、私たちが、日本の社会が今後どんな発展をしようが、どうしても守らなくてはならないもの、充実・拡大させなければならないものを、「三つの自由」という立場でまとめた文書であります。

 経済生活の問題などでは、社会が進歩して変革の階段を一歩一歩上がってゆくと、国民の生きる保障は拡大し、「生存の自由」がだんだんひろがることになります。また全体をつうじて変わらないもの、断固守らなくてはならない自由もあります。そのすべてを研究してまとめあげたのが、この「宣言」であります。

 実は、私たちが党大会でこの「宣言」を決めたのは、いまからちょうど二十年前のことでした。1976年の第13回臨時党大会で、「自由と民主主義の宣言」として決めて発表しました。これは、国内でも世界でも大変な反響をよびました。

 その数年後に旧東ドイツのベルリンで国際理論会議(1983年)がありました。マルクス百年を記念した会議だったのですが、わが党の代表がそこに参加して、この「宣言」の内容を発言したら、大変な驚きの声があがったのですね。西ドイツの新聞が取材にきて、大きな紹介記事を書きましたが、そのなかで、日本共産党の発言は、「モスクワの刻印をもつ教条主義的共産主義者」、つまりソ連流の共産主義者には「異端者」の主張として映ったにちがいないとして、「宣言」の内容を克明に紹介してくれました。

 みなさんもちょっとご覧になっていただければわかりますように、私どもがここに書いていて、将来、日本が社会主義になってもこれは変わらないといっていることが、当時のソ連の社会や政治の実態とは180度ちがっていたからです。



お問い合わせ ik8m-ysmr@asahi-net.or.jp


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