文書No.
961223
埼玉大学教授西山賢一氏(やさしい経済学)
予期しないことやびっくりするようなことが次々と起こる時代。これが現代の特徴である。社会主義がだれも予期しない形で崩壊し、突然にバブルが発生して終わった。インターネットが日常の話題になり、電子マネーが世界の各地で実験されている。社会人を受け入れだした大学では、社会人たちの学習意欲がおう盛であることに教師がびっくりしている。 こうした時代を解読し指針を与えてくれる学問として、経済学に大きな期待がかかっている。ところが、こんなにおもしろい時代に経済学は禁欲を守ってきた。その様子をダリーという米国の経済学者が次のように表現している。 「経済学者というのはタイタニック号の甲板でデッキチェアの最適配置をさがしているような存在だ。市場はデッキチェアや洋傘が最適に配置されていることに注意を傾けるが、われわれが氷山にぶつからないように気をつけることはない」 大きな期待がかかっているのに、なぜ経済学は禁欲してきたのだろうか。二つの理由があると私は考える。 一つは、経済学の枠組みそのものが大きな問題を解けなくしてしまっているためである。経済社会を変えていくおもな原動力は、生産に関係した技術のダイナミックスと消費者の好みのダイナミックスの二つである。ところが、これら二つの原動力の詳細は、経済学のなかでは決められないで、経済学の外から与えられることになってしまっている。 もう一つは、経済学が前提にしている人間像が、百年以上も前のままになっているためである。つねに利益あるいは効用を最大にしようと合理的な判断をする孤立した個人というのが、経済学がいまも大事にしている人間像だ。認知科学や人類学が新しい人間像を大胆にとらえだしているのに。 細かいところを鋭く切り開くカミソリのような経済学(もちろんこれも必要)でなくて、時代を大きく切り開いてくれるナタのような経済学を多くの人たちが求めている。その一つの表れが「複雑系」への関心と期待だろう。どう見てもむずかしい複雑系の本がよく売れているらしい。 複雑系のなによりの特徴は、予期しないことやびっくりするようなことが起きるところにある。だから、多くの人たちが時代を解読するために複雑系に目をつけたのは的を射ている。 このシリーズでは、いま注目されだした複雑系の視点から経済をながめ、さらにナタの役割を果たす新しい経済学への手がかりを求めてみよう。
理論経済学の若手研究者は、アローたちが力をいれている分野だから、複雑系は経済学としても本物の研究領域になると確信しだしている。いずれ若手が力をつけて複雑系としての経済を論じてくれるだろう。 さて、複雑系とはいったいどういうものなのか。もっとも素朴なレベルでいえば、思いがけないことや予想できないことが起こるようなシステムが複雑系である。天体の運行や投げたボールの行方は力学の法則で予想できる。それに対し、つねに進化し適応を目指している生物の世界は思いがけないことに満ちている。生物に限らず、為替や株式の相場など生きもののようなふるまいをするシステムは、どれも複雑系の仲間である。 複雑系は要素に分けていっても単純にならない、あるいは要素に分けるとなくなってしまうという性質をもつ。病気を例にするとわかりやすい。近代医学は複雑に見える病気も要素に分ければ単純になると考えた。どの病気にも病原体があり、それを除けば元にもどるという、感染症モデルの考え方である。ところが、慢性症や職業病といった病気は要素に分けていっても病原体が見つからない。近代医学の目だけでは原因が理解できない。つまり複雑系に属する病気である。 まとめると、たくさんの要素がつながりあっていて思いがけないことが起こるのが複雑系だ。そうすると、生命も経済も社会も含め、私たち自身とその身の回りはどれも複雑系ということになる。 複雑系の科学はこれまで、数学や物理の分野を中心にして発展してきた。これからの大きな発展が期待されるのが複雑系を取り入れた社会や経済の理論である。 複雑系は経済学にどんな貢献をしてくれるのだろうか。「多様性のみが多様性に打ち勝つ」というのがシステム論の基本原理で、複雑な対象を相手にするには自らも複雑で豊かでなくてはならない。経済学が豊かになるには、経済社会の二つの原動力である技術と消費者の好みのダイナミックスをその枠組みのなかに取り入れなくてはならない。複雑系の経済学はこの課題を解こうとしているのである。
しかし財の数が多くなると、どんなに性能のよいコンピューターでも、最適な組み合わせを選びだすのに膨大な時間がかかる。もちろん、私たちが即座に計算できるはずはない。ところが、私たちはやすやすと買いものができる。なぜなのか。 最近の認知科学によると、人は行動に際して頭の外にある情報をふんだんに使っている。環境と私の身体の両方に埋め込まれている情報に、全身でこたえているのである。これを三つの側面から見ていこう。 第一に、私たちは目の前の事物の持っている特徴に直接反応している。パソコンにダイヤルがついていれば回してみたくなるし、ボタンがついていれば押そうとする。その反応にデザインがうまくこたえてくれていれば買ってみたくなる。事物の持っている特徴をアフォーダンスというが、私たちは頭で考えるまでもなく、事物のアフォーダンスに導かれて行動する。 第二に、私たちは生まれてからの境遇と努力の積み重ねで、それぞれに独自の好みを持ち世界の見方を身につけている。これを広く世界像と呼んでおこう。それは私たちの身体に深く刻みこまれている。社会学ではこれを身体の内部に組み込まれた社会という意味でハビトゥスと呼んでいる。買い物に際しても私たちはハビトゥスに身を任せている。 第三に、私たちは買いものなど経済活動の場面で慣習や習俗、ルールや基層文化などにしたがって、考えるまでもなく行動していることが多い。これらはまとめて広い意味での制度と呼ばれている。 このように(1)心理のレベルのアフォーダンス(2)社会のレベルのハビトゥス(3)経済のレベルの制度――を総合して人間像をとらえ直そうというのが最近の流れである。 この流れは複雑系の誕生のいきさつともつながる。六〇年代までの科学は、自然の本質を究めようとして量子論が活躍していた。七〇年代から自然の複雑さをそのままとらえる古典論が復活した。これが複雑系の研究につながっている。 経済学も人間の本質をとらえるのに急ぐあまり、あるがままの人間を忘れてきた。いまようやく確かな人間像をもとにして複雑系としての経済学が築かれだした。
そのためにミクロの視点から始めよう。私たちは自然とのあいだで物質代謝をしながら暮らしを維持する。それを媒介するのが技術である。現代では、技術はおもに企業の技術者たちが生みだしている。技術者たちをつき動かしているのは何だろうか。彼らも時代の空気を吸い、時代が与える夢と現実を共有している。例をあげよう。 そのひとつ。まんがの「ドラえもん」に関心を持っている技術者が多い。ドラえもんはロボットだが、子供たちの仲間に溶けこんで暮らしている。子供たちが困難に直面すると、ロボットの力を発揮して助けてくれる。ロボットであることを意識させないようなロボットで、いざとなると超能力で助けてくれる。そこには人間と機械との理想的な関係が描かれている。これが技術者に手がかりと励ましを与え、豊かな世界像を育てていく。 もうひとつ。低公害車を普及させるための会議に参加して技術者たちと話す機会があった。環境問題が深刻になっている現実を、彼らは深く自分の問題としてとらえていた。時代の現実は技術者の世界像に使命感とやる気を刻みこんでいく。 このように、技術者たちはさまざまな機会を通して彼らの世界像を育てていく。その世界像が新しい技術の生成に深くかかわっていく。技術を生みだす源は、技術者たちが持っている世界像であるらしい。 つぎに技術の芽が生まれ育っていく場には、収穫逓増(正のフィードバック)という仕組みが貫かれている。収穫逓増をめぐっては、経済学でも昔から議論がくり返されてきた。複雑系の視点はこれを普遍的な仕組みとして位置づける。 努力するほど収穫が加速度的に増えるというこの仕組みは、新しい技術が育つには時間がかかり、育てば他の追随を許さないことを語っている。そこで、優れた技術者たちは世界像を共通にする仲間たちとともに、彼ら自身の居場所(ニッチ)を定め、時間をかけて技術を育てていく。 そうすると、企業がとるべき技術戦略はトップダウンでプロジェクトチームを作るだけでなく、すでにどこかで居場所を持っている技術者たちのインフォーマルな実践の共同体を見つけだして、それを支援することだろう。
また景気はさまざまな周期で変化するという。短い周期には数年を周期とするシリコンサイクルがあり、長い周期には五十年を周期とするコンドラチェフの波がある。景気は本当に循環するのだろうか。 これらの問いへの答えは、経済を単純系とみるか複雑系とみるかで、まったく異なってくる。何か経済以外の原因があって株価が暴落したと考え、景気には一定の周期があると考えるのは、経済を単純系ととらえている立場である。 しかし、企業や家計などたくさんの分散した経済主体が部分的につながりあって全体として複雑なネットワークを作っているのが経済なので、経済は生物などと同じく複雑系に属する。複雑系の変化にはどんな特徴があるのだろうか。 複雑系には見かけの違いを超えて共通の性質があるらしい。これが研究者たちを複雑系にひきつけているのである。もっともきわだった性質を手がかりにして、経済変化の特徴を確かめよう。 複雑系は変化しながらいずれある共通の状態におちつく。そのおちついた先の状態が自己組織臨界状態と呼ばれる。この状態では固有の時間のスケールも固有の空間のスケールもなく、どのような大きさの変化(ゆらぎ)も起こりうる。そして、大きな変化は起きにくく、小さな変化はひんぱんに起こる。 そうすると、特別の原因がなくても複雑系としての経済に内在する仕組みから、為替も株価もまれに大きな変化を示し、ひんぱんに小さな変化を示すことになる。また、景気の循環も厳密な意味では周期がなく、まれに景気が大きく変化し、ひんぱんに小さく変化している過程から、周期らしいものを読みとっているのである。 複雑系のこのような性質を「カオスの縁」で表現することもできる。複雑系は予測がつくような単純なふるまいはしない。そうかといって、まったくでたらめなふるまいをしているわけでもない。コンピューターを用いたさまざまな計算の結果、秩序正しい状態とランダムな状態の境界にいて、その両方に足を突っ込んでいるようなあやうい状態であることがわかってきた。このことを「複雑系はカオスの縁にある」と表現している。 ときに秩序正しく、ときに混とんとするというように、状態が微妙にあるいは大きく変わっていくのもまた、複雑系としての経済に内在した特徴なのである。
たとえば、たくさんの水分子を計算機のなかにつめこみ、個々の分子のダイナミックスだけを与えて、マクロな水がどうふるまうかを観察する。こうした分野に計算物理学という名前がついた。ここから実験と理論とならんで、計算の世界が生まれた。仮想現実の世界である。 私は大学院生のころにこの新しい動きに出合って、いずれ経済でも計算機のなかに人びとを入れてマクロなふるまいを調べるようになるだろうと、文系の友人に語ったことがある。そしていま、計算経済学が大きく育ってきている。 計算機によるシミュレーションが経済や社会の分野に役に立つことを見事に示したのが、政治学者のアクセルロッドの研究である。それを簡単に見てみよう。 国際政治のかけひき、企業どうしの競争、他人とのつきあいなど、社会のさまざまな場面で私たちはジレンマに直面する。たとえば、おたがいに協調すればまずまずの利益が得られるが、相手が協調するのに自分だけ裏切ることで自分の利益は最大になり相手は損をするならば、結局ともに相手を裏切って利益を失ってしまう。これが有名な囚人のジレンマというゲームである。 このゲームをくり返し行うとき、どんな戦略をとるのがよいか。これを知るために、さまざまな戦略をとるプレーヤーを計算機のなかに作って、総当たり戦でおたがいにゲームをくり返しやらせる。その結果、総合力でいちばん強そうな戦略が見つかった。それは、最初は相手と協調し、二回目からは相手の前の回の手を選ぶというのである。その特徴からこれは「しっぺ返し戦略」と名付けられた。こうして国際政治から企業の競争まで、ジレンマ状況のもとでしたがうべきつき合い方の一般法則が明らかになってきた。 これをきっかけにして、計算機シミュレーションによるゲームの研究がどっと広がった。売り手と買い手が集まって財に価格をつける市場ゲーム(ダブルオークション)も、計算機が得意としている分野である。株式相場もまたシミュレーションの対象になっている。 こうしたシミュレーションの何よりの意義は、計算機が与えてくれる思わぬ結果に出合って新しいものの見方に気付き、理解や判断の仕方を豊かにすることにある。シミュレーションを行う側からすれば、予期しないびっくりするような結果を引きだすことに何よりの楽しみがある。
経済の世界もいま、持続的な成長を実現させるために資源や環境の問題を解いていかなければならないという課題をかかえている。こうした境界を超えたテーマこそ、複雑系の科学の出番である。エコロジーとエコノミーをどのように調和させていけばよいのだろうか。 経済に生態系の発想を加えると、現在の生産と消費の方式から循環型に移っていけばよいという解決法がうかんでくる。生態系はひとあし先に循環型社会を実現している。植物(生産者)と動物(消費者)とバクテリア(分解者)の連関で物質を循環させているのである。 このような生態系に学んだ技術が次々と工夫されている。国連大学が主導しているゼロエミッション計画や、東大をはじめとする国際学術協力で進められている逆工場(インバース・マニュファクチャリング)などは代表的な例である。バクテリアにとって植物や動物の排せつ物や死がいが何よりの資源であるように、消費が終わって廃棄されたごみが実は資源のかたまりなのである。徐々にこうした視点が技術の世界にとり入れられだした。 しかし、すべての廃棄物が循環されればそれでいいというものではない。私たちは生態系の法則のさらに背後に熱力学の法則があることを知っている。エントロピーの法則である。秩序が生みだされるときそれ以上の秩序が周りで失われていることを、この法則は教えている。廃棄物がたくさん循環するほど見えないところで秩序が失われているのである。その収支は、太陽から秩序の高い光エネルギーが注いで、宇宙へ秩序の低い熱エネルギーが逃げていくことで、最終的に償われる。 もう一方で、情報やサービスは少ない資源と廃棄物でたくさんの経済効果を生みだしてくれる。そうすると「物質とエネルギーはつつましやかに、情報とサービスは豊かに」が自然と社会の法則に合致した方向であることが見えてくる。マクロ経済学には、これが経済のあり方として可能であることを示す課題が託されている。 経済の世界では、理科系の出身者もリーダーとしてたくさん活躍している。ところが、経済学の研究者は経済しか学んできていない場合がほとんどだ。私はつねづねこれを不思議に思っている。複雑系が経済のなかにどんどん入り込むと、異分野の人たちが経済学に進み、これまでとは違う経済学を生みだしてくれるだろう。
人は利益や満足を求めて経済活動をするというのが経済学の前提になってきた。しかし、私たちの活動は美にまでつながるような豊かな内容をもっている。 中井正一は「美学入門」で「美というのは、いろいろの世界で、ほんとうの自分、あるべき自分、深い深い世界にかくれている自分に、めぐりあうことだ」といっている。そこで「しびれるような喜び」を感じる。私たちは経済活動を行っているときでも深いところでそうした美を求めている。そして、同じく美を求める人たちと交流しようとする。 八二年にシリコングラフィックス、九四年にネットスケープ・コミュニケーションズを創業した米国のジム・クラークは、仲間といっしょに新しい業を興すことがなによりもすばらしいといっている。起業家たちは仲間とともに業を生みだしていくその交流の過程に「しびれるような喜び」を見いだす。 ここでかぎになっているのが「色気」だと私は考える。私のいう色気とは「交流のなかで表れる人間的な魅力」のことである。通常は色気というと、男と女のあいだの関係の文脈で用いられる。しかし、男も女も性としてひとからげにできる時代はもう終わった。男でも女でもなく、その人の独自の魅力がすべてである。 色気を基層において人びとが交流する場をネットワークと表現することもできる。コンピューターのつながりもまた同じネットワークという言葉で表される。世界中のコンピューターどうしがつながってきて、私たちはネットワークという言葉から、人と人がコンピューターネットワークのようにつながった状態を思いうかべる。 しかし、人と人の交流はそうした平面的なつながりとは異なり、多様で複雑きわまりない。どこまでもかぎりなく豊かになる性質をもっている。コンピューターネットワークは私たちにとってひとつの人工的な媒介物でしかない。 色気で特徴づけられる人びとのネットワークは、世の中のもっとも魅力的な人びとを集めて元気づけていくことで、経済の流れまでも変えていく力になるだろう。そうした流れを温かく見守り支援していくのも複雑系としての経済学の果たすべき役割になる。
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