ディスクロージャー研究学会



(青空に物事を晒すと虫干しされ綺麗になる)

文書No.
970101

「民主」「市場経済」を徹底

    自己革新、原動力に  民間にも政策論議の責務

    日本経済新聞 1997年1月1日 日本経済研究センター 理事長 香西 泰  


必要に迫られ最後の切り札
今年の希望は、1997年が日本の構造改革元年となることだ。
 いま構造改革が緊急に必要なのは、■日本経済が低迷を脱し■世界的な競争の中で技術革新の波に乗り■高齢社会をタフに生き抜く−−ためである。

 80年代まで、構造改革は外圧の問題だった。日本自身はうまくやっているのが、つきあいのために少しは身を改めなければならない。そんな気分が漂っていた。しかしいま、日本の構造改革は自分自身の課題だ。国際的視点が必要なのは、自分の利益のためで外圧のせいではない。

 90年代前半の不況期には、マクロ政策手段が総動員された。経済のデフレスパイラル阻止のためだった。しかし、需要を補給しても景気の「本格的」回復は来なかった。ましてや技術革新をリードすることはできず、高齢社会への対応は財政赤字によって阻まれた。

 こうして構造改革が「最後の切り札」として登場した。筆者の会う外国からの客人は全員、日本は本気なのかと聞いてくる。筆者は、必要に迫られているのだからそのはずだと答える。政権の基盤が弱体だが、とさらに不安がる人には、だからこそ政府は改革に取り組んで国民の支持を求めているのだと答えている。必要は発明の母、必要に迫られるのは悪いことではない。

 しかし構造改革として、何をどうやるかを決めるには、改めて構造改革の理念を掲げるべきだ。事情に迫られての改革では功利的、近視的すぎて、浸透力・持続力を持たない。景気回復のための規制緩和なら、景気がひょっとして回復(景気は魔物。その可能性はいつもある)すれば、規制緩和はもうやめようということになる。また途中で失業が増えれば、約束が違うということになる。

 私見では、構造改革の基本は自由民主主義と市場経済の両者の徹底にある。この二つを並べる理由は、規制緩和、官民癒着体制打破など市場経済の徹底は公的部門の改革なしに達成できないことからも明らかだ。

 フランシス・フクヤマ米ランド研究所上級研究員の有名な主張では、民主主義と市場経済によって「歴史は終わり」になるという。しかし実際には、民主主義と市場経済は絶えず自己革新を要求する。シュンペーターは停滞的な封建制度や社会主義はあり得るが、停滞的な資本主義は考えられず、技術革新と創造的破壊が付き物だと述べた。事情は民主主義についても同じだ。フクヤマのいう「退屈な世紀」は到来しない。


審議会ではすでに効果
 民主主義と市場経済の先進国である米国や英国でも、政財界のスキャンダルはひっきりなしに起きる。そして、それをきっかけに民主主義と市場経済は原点に立ち戻って、さらなる前進が求められる。これまでの日本も民主主義であり、市場経済であった。しかし上記の事情で、民主主義、市場経済にさらに磨きを掛けなければならないところに来ている。 96年秋の臨時国会で橋本竜太郎首相は行政、経済構造、金融、社会保障、財政の五分野の改革を公約した。これは、改革が必要な分野の多くをカバーしている。それぞれの課題については、本欄でも別途検討が行われよう。

 橋本首相は金融ビッグバンに関連して「フリー、フェア、グローバル」の三理念を掲げた。これは多くの改革に通ずるものだ。私流に言えば、フリーとフェアは民主主義と市場経済の徹底に通じる。

 民主主義の徹底は、構造改革の手法としてもすでに効果を上げている。公開性や説明責任が構造改革の過程でも要求され、それが改革論議を活性化している。最近の経済審議会、産業構造審議会などの答申は、従来の役所の文書の枠を越えて、大胆な展望や提案を提出している。これは会議の公開性が約束され、意見が闇(やみ)に葬られることがなくなったことが、審議会などの雰囲気を変え、議論を真剣にした結果だと言えよう。

 特に、ワーキンググループや研究会が若手の学者・研究者を起用し、役所が手を加えないで意見をそのまま発表する形になったために、フレッシュな政策の発想が多くの人の目に触れるようになった。政府と学者、研究者の関係としてあるべき姿だが、それがようやく実現したのも一つの前進である。

 もちろん構造改革の本番は既得権益の打破にある。それに比べれば、審議会の運営改善は問題の序の口にすぎない。しかし、既得権益はもともと強力な存在だ。それと戦うには民主主義の徹底しかない。

 民主主義の下で世論が筋の通ったものとなることについて、日本の知識層には全体として大きな責任がある。日本ではこれまで、政策研究や関連データが官庁に偏在しがちで、学者は理論や歴史の研究に、エコノミストやシンクタンクは景気予測に専念する嫌いがあった。

 既得権益を打破するささやかな一歩として、これまでの制度の費用と便益を解明するなど、政府の外での現実的な政策論議を活発にしなければならない。


効率と公平対立も覚悟
 構造改革は民主主義と市場経済の徹底だなどというと、言葉の上のきれい事と誤解されるかも知れない。しかし、絶えず原点復帰して自己改革を遂げようとする急進性(ラディカリズム)こそ民主主義と市場経済の体質だ。構造改革の過程では、至るところで衝突が起きると見なければならない。

 まず予想されるのは民主主義と市場経済の衝突だ。両者は夫婦のようなもの、相互依存関係にあるが、深刻な緊張・対立がないわけではない。構造改革の目標はフリーとフェア、あるいは効率と公平にあるが、これらは簡単に併記できる間柄にはない。

 経済審議会行動計画委員会報告は経済構造改革について大胆な効率改善の青写真を示す一方で、弱者対策は弱者対策として別にしっかり手当てすべきだと書いている。効率と公平を切り離した上で両立させようと言うわけだ。このように資源配分と所得分配を別々に処理することは、経済学でも伝統的な考え方だ。

 弱者対策は必要である。また弱者対策を護送船団方式のような産業対策を使ってやろうとすると、競争や効率改善が妨げられ、業界の強者がかえって有利な立場に立つなど弊害が多い。その意味で効率改善を進める政策と弱者対策とは切り離した方が良い。

 だが、両者の切り離しはそれほど簡単ではない。経済学では一括税(ランプ・サム・タックス)といって、資源配分には影響しない所得移転の方法があると仮定するが、そのような便利な手段は現実には存在しない。欧州連合(EU)で農業についての生産補助金はやめ、農村に対する社会補助金は認める方針を立てたことがある。しかし農村への補助金は、農業生産にも影響しよう。

 社会保障制度は国民の選択の問題だが、制度はもとより、財政や経済バランスも破たんするような仕組みは、良識に基づいた選択の範囲外であろう。経済審議会構造改革部会などの試算は、現行制度が維持可能でないことを強く示唆している。

 構造改革を民主主義と市場経済の徹底ととらえるとき、当然、改革とこれまでの日本システムの関係が問題になる。そういえば、かつての流行した日本礼賛論は昨今、構造改革のかけ声に気おされてか影が薄い。

 一方、日本システムを民主主義とも市場経済とも無縁な準戦時(1940年)体制の継続ととらえ、改革こそが今求められているとの主張もある。しかし、この意見は戦後改革や高度成長の成果を軽視している。日本は民主主義であり市場経済であるからこそ、その本能ともいうべき原点復帰、すなわち自己革新衝動につき動かされている。日本の改革はその点では、他の先進国のそれと同次元にある。

 またそれだけに、日本の改革は上からのクーデターとしてでなく、草の根レベルの積み上げと突き上げを通じて実行に移されていくべきものであろう。日本的システムのどこをどう変えるか、現場が決定する面が少なくないはずだ。


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