ディスクロージャー研究学会



(青空に物事を晒すと虫干しされ綺麗になる)

文書No.
970104

省庁再編に偏ると行革不発

    官僚の”細工”監視  政治の実権、「民」に奪還

    日本経済新聞 1997年1月4日 前経済企画庁長官 田中 秀征  


「行政党」が連立の基盤
 細川内閣以来の三年半、かつてない政治の激動が続いたにもかかわらず、日本の政治や行政には基本的な変化が見られなかった。

 確かに政権はめまぐるしく変わり、政権の枠組みや組み合わせも変わった。気が付いてみると、共産党を除けば、ほとんどすべての政党がこの短期間に与党と野党の双方に身を置いたことになる。日本の政治勢力のほとんどが、いわば総動員されてなお政治や行政の基調が変わらなかったという事実は一体何を意味するか。それは、ほかに強力な政治的要因が存在したということではないか。

 すなわち、この三年間、一貫して唯一、与党の立場にあり、しかも常に”基盤政党”の役割を果たしてきた強力な政治集団がある。それはほかでもない。「行政党」とも呼ぶべき日本の官僚組織である。法や制度の外形にとらわれず、独立した政治的意思を持って影響力を行使する集団を政党というなら、今日の日本の官僚組織は紛れもなく、実質的な政党の役割を果たしていると言える。連立政権には、政権の性格や原則を規定し、運営に中心的役割を果たす”基盤政党”が必ず存在する。三年間の連立政治を検証すると、表面的には旧新生党や自民党が基盤政党に見えても実質的な基盤政党は一貫して行政党であったと筆者は理解している。行政党という同一の止まり木に、諸政党は鳥のように止まったり離れたりしていたのではないか。

 筆者はかねて「行政党」が実質的に運営する政治を「官権政治」と呼び、「民権政治」と対置してきた。かつての国権派・民権派という呼称は、いわば主権の所在についての概念だが、筆者がいう官権・民権は、実質的な政策決定権、もしくは意思決定権の所在、すなわち「国の大事なことを本当はだれが決めているのか」という問題意識に立脚している。 確かに、日本の政治制度は形式的にはほぼ完全に近い「民権政治」だが、実質的には行政党支配の官権政治になり果てている。「すべての決定は、国民やその代表である国会や内閣が行っている」と、行政党は抗弁する。しかし、選挙や政治活動で資金や票の世話をすることによって議員や政党を取り込み、人事交流の美名によって地方や他省庁を支配する。民権政治を骨抜きにし、民権の仮面をかぶった官権政治は、あけすけな官権政治よりはるかに度し難い。


有効機能へ二つの条件

 さて、二つの不可欠な条件が満たされれば、官僚制度は民権政治にとっても、なくてはならない有用性を発揮する。

 そのひとつは、外からの効果的な価値投入、すなわち、官僚制度の外部から適切な価値目標を与えることだ。官僚制度自体は新しい価値や哲学を生むことはない。新しい価値や哲学を生み、それを官僚組織に投入するのは、国民の役割であり政治の使命だ。冷戦後の日本で官権政治が強まったとすれば、それはそのまま政治の無力さや価値の混迷を反映しているとも言える。

 もうひとつは、外からの強力な制御機能。すなわち行政の自己増殖や恣(し)意的判断をコントロールできる有効なチェック機能が官僚制度の外部に備わっていることである。

 現在、日本の官僚制度は明らかに、これら二つの条件を欠いている。新しい価値目標が与えられなければ官僚組織は省益のおもむくままに突進するか、それとも「政策の継続性」を掲げ時代遅れの価値を類推、拡大解釈して省益中心の政策展開を図る。そして、チェック機能が働かなければ、単に機構や権限の膨張にとどまらず、その政策判断にも膨張主義、拡大主義、出世主義が色濃く投影されることになる。

 したがって、今次の行政改革の主目標はおのずと明らかだ。行政党の政権離脱すなわち「民権政治の確立」である。そして、そのためには行政改革そのものを国民主導、政治主導で進めなければならない。重ねて言えば、官権政治は民権政治の母とはなり得ない。行政主導の行革からは決して、政治主導の行政が生まれることはないのだ。

 さて、第一次臨調以来の日本の行革が不首尾に終わってきたのは、その基調が「行政主導の行革」であったからだ。患者が処方せんを書くような行革が成功するはずがない。「政官一体の行革推進」と言えば聞こえはいいが、それこそ行政主導の行革にほかならない。行政の協力は専門的、技術的な微調整などに限定されるべきだ。

 「省庁再編」ほ掲げる橋本政権の行革も基本的には今までの行革の流れに沿うものと言える。行政の効率化、行政需要の変化への対応に主眼を置く行革であって、今のところ「政治主導の行政の実現」「官権から民権への転換」を目指しているようには見えない。それは橋本行革推進の本拠である行革会議の事務局が多数の官僚によって構成されていることからもうかがえる。

 今次の行革の意義は、冷戦体制下、成長経済下の今までの行革とは根本的に異なっている。それは行革を求める国民的関心とエネルギーの出所をみれば歴然としている。1)消費税率引き上げへの反発2)高速増殖炉「もんじゅ」、住宅金融専門会社(住専)、HIV問題に発する行政不信3)経済活性化のための構造改革の要請−−などが、行革を最優先の政治課題に浮上させた。


国民代表とし妥協許されず
 多面的な要請を受ける今次の行革を政治の側からみると、三つのテーマに整理できる。

 1)行政が先行して身を削る量的改革。機構や権限の縮小、人員削減を伴う改革だ。省庁再編、地方分権化、民営化、規制緩和なども結果として、この要請にこたえることができる。政治や行政が本格的な財政改革を推進するための資格を得る前提作業とも言える。

 2)行政が身を正す、質的改革。行政不信を解消するための公務員倫理、情報公開、行政慣行(官官接待、天下りなど)の改革、さらに「政治主導の行政」を実現するための、政治任用、人事管理、審議会の公開などもある。これらは、行政の意思決定や責任体制の在り方に深くメスを入れる民権化のための改革だ。

 3)新しい行政需要に対応する機構改革。経済構造や社会構造の変化に伴って、行政需要も大きく変わる。政府の役割、行政サービスの内容も時代の変化に対応を迫られる。冷戦の終結、経済・財政の破たん、急激な高齢化、経済のグローバル化、この四点の革命的変化をあげても、行政の抜本的改革は不可欠だ。橋本行革の「省庁再編」は、この重要テーマに対応しようとするものだろう。

 これら三つのテーマはもちろん、根底で連結している。ただ、どのテーマに重きを置くかによって、行革の方向や成果が大きく変わってくる。3)を重視し過ぎると、1)と2)の成果は乏しくならざるを得ない。

 なぜなら、3)については政官の一定の協力が可能だから、これを通じて行政が行革全体を牛耳る心配があるからだ。「省庁再編」となると、官僚は自分たちの新たな座席を確保するため、目の色を変えるだろう。その過程で身を削らなくても済むように、身を正さなくても済むように、必死に画策し抵抗することは目に見えている。

 橋本行革が政治主導の行革になるかどうか。その試金石として筆者は「情報公開法の内容」「規制緩和推進計画の見直し」「大蔵省改革の内容」の三点に注目している。もしここどお茶を濁すようなら、その後の行革は否応なく「行政主導の行革」の方向に進むだろう。

 橋本首相には行革の歴史的チャンスを実らせてもらいたい。言うまでもなく、首相は国民の側の代表である。行革の行司ではなく、一方の力士である。行政の言い分と国民の要請の妥協点を探る行革は、行政主導の行革であって、政治主導の行革とはならない。


お問い合わせ ik8m-ysmr@asahi-net.or.jp


目次に戻る